「進化論=トートロジー」を否定する人たち

昔からある議論として、進化論は「トートロジー」なんじゃないか、というものがある。
まあ、一番分かりやすい言い方が、

  • 適者生存の含意が、「<生き残った>=適者」という「結果論=機会原因論」なんだから

であろう。
他方で、このトートロジー論は、進化論擁護派から、さまざまな理由で、否定されてきた。進化論という名前で学者たちが研究しているのは、そんなトートロジーの部分だけじゃない、もっといろいろ計算して複雑な構造を分析している、などなど。
しかし、進化論を「トートロジー」だとして批判したい人たちが言いたいのは、こういった進化論が、そもそもの理論として含有している

  • 結果をひたすら「(合理的だと)説明」する、機会原因論的な構造

にあるわけでしょう。つまり、絶対に負けない理論なわけ。
ここで少し考えてみよう。進化論とビッグバン理論を比較することには意味があるだろうか?

  • ビッグバン理論は、この宇宙がどのように生まれて今に至っているかを考察する。
  • 進化論は、生物がどのように生まれて今に至っているかを考察する。

しかし、生物とは、ビッグバン理論の理論的バックボーンである、量子力学であり、場の量子論の理論的構成要素である「素粒子(そりゅうし)」から構成されることになる、「原子」、そこから構成される「分子」。そういった物質の

  • 化学反応

が無限に反応し続ける中で、再帰的な構造として生まれてくる特殊な物質群が「生物」と呼ばれているだけで、そもそも、生物は、量子力学であり、場の量子論によって説明可能な存在でしかない。つまり、

  • 進化論はビッグバン理論に<含まれている>

わけであるw
なぜこんなことになるのか? それは、この二つの理論が一方で理論でありながら、他方で、

  • 結果をひたすら「(合理的だと)説明」する、機会原因論的な構造

の理論となっているからだ。ビッグバン理論も、進化論も、たとえこれらの理論がどんな主張をしようとも、この世界の

  • 観察

と整合性がない限り、正当化されない。これは逆に言えば、観察と矛盾していない限り、この理論を否定できない。つまり、徹底して、「観察=現実」をひたすら

  • 追随(ついずい)

していく理論だ、ということを意味してしまう。いじわるな言い方をすれば、

  • 雑な仮説を排除できないがゆえに、いくらでもナイーブな物語を正当化できてしまう

というわけだ。
この構造は著しく、「心理学」の研究方法と似ている。心理学が、例えば、その生徒の「偏差値」を測定するとする。偏差値は一般に、その科目の「能力」を測定しているとされている。しかし、そこで行っていることは、たんなる「テスト」である。ある内容のテストを行って、何点になったのかを、繰り返し行うことによって、その「統計=平均」を「偏差値」と呼んでいるだけなのだ。
ここにおいて、その生徒がテストでたたきだした点数は、まるで、「神(かみ)」のように絶対化される。つまり、その生徒がテストで高い点数を一度でもたたきださない限り、その生徒の偏差値が高くなることはない。まるでその点数は、この世界の「(観測)結果」として、この世界の「現実」として絶対化される。
力学の用語で説明すると、「偏差値=勉強の能力」とは、「ポテンシャル」に対応していて、テストの点数とは、力点の「位置」に対応する。「ポテンシャル」とは、実際にそのポテンシャル・エネルギーが働かなくても、「もしも働いたら、こうなる」ということを示すことが可能と考えられる「潜在的」ななにかだ。しかし、「偏差値=勉強の能力」はそういうものではない。実際に次のテストで、いい点がとれるかどうかはやってみないと分からない。まったく今までと違うテストの内容だったら、点数は下がるかもしれない。つまり、あくまでも、「偏差値=勉強の能力」は、

  • 比喩(ひゆ)

なのだ。
もっと極端な、一般的な意味での進化論を論駁する命題は、

  • 人間が人工的に遺伝子を改変するケース

だろう。当り前だが、生殖遺伝子を人工的にまったく別のものに組替えれば、単純に男女がセックスをして産まれた子どもとは違った性質の子どもになる。しかし、そう言うと、進化論者は、ある意味でそれは「反則」だと言う。つまり、実は、進化論の命題には、これをやってはいけない、という「但し書き」があった、ということを意味している。
そうだとすると、逆に問い直してみるといい。ある進化の法則の「前提条件」を十全に書き尽すことは可能なのだろうか? これが、一般的に、数学で言うところの、外延と内包の問題である。
ある進化論の仮説を証明するために、ある調査をする。一つの世代でどうなったのかを、その地域全体で調べて、統計的な結果を集めたとしよう。そしてその結果は、もともと調べたかった、仮説に近く思えたとしよう。しかし当り前だが、過去についてはもう、このような調査や実験をすることはできない。未来については可能かもしれないが、その結果がなぜ、「今」の結果と比較できるのかを示すことはできない。そうだとすると、結局のところ、あらゆる「現実」は、

  • いつ、どこで、だれが

の、その「歴史性」においてしか語れないのかもしれない。ここに、進化論が「歴史学=人文系」の一部なのではないか、という疑惑がでてくる。つまり、先程の例で言うなら、進化論は「外延性」においてしか存在しないのかもしれない。
それでは、実際の進化論学者がどういった命題を作ってきたのかを振り返ってみると、それは、もっと単純な

  • 数学モデル

としてモデル化させている。つまり、ある傾向性をもつ遺伝子が、その集団内でどのように分布していると、それらは未来に継承されるのか、それとも生き残るための優位性がなく、その遺伝子は絶滅するか、といったような。大事なポイントは、このように記述される傾向性は確かに、

  • 計算可能

だ。しかし、だからといってその「モデル」が現実に適合しているかを証明したことにはならない。ただ、少なくとも、この数学的な「無矛盾性」は、現実社会に、そのモデルをあたかも適用したかのような結果をもたらす「可能性」が存在していることを示しているように思われる。
おそらく、進化論学者がやってきたこととは、せいぜい、こういった単純なモデル化だったわけだろう...。