千葉聡『ダーウィンの呪い』

明治から大正にかけての日本の知識人の本を読んでいると、これらが単純な儒教キリスト教の延長で書かれたものではない、ということに気づく。では、当時の日本人はどういったものを読んでいたのかだが、非常に影響を受けていると思われるのが「進化論」だ。
しかし、ここで言う「進化論」は、有名なダーウィンの『種の起源』という原書にあたって、インスパイアされたものなのかと考えてみると、なんとなくそれとは違うような印象を受ける。その延長で見えてくうるのが、スペンサーの『社会進化論』ではないか。
この問題を、「なんだ、当時の日本の知識人は勉強熱心だったんだな」くらいに軽く聞き流さない方がいいと思っている。ここで言う「進化論」は、当然、

の正当化を、かなり意識したものだったはずだ。逆に言えば、天皇制はスペンサー的な意味での「進化論=優生学」によって、

  • 理論補強

されるはずだ、という固い信念から頻繁に言及されていたはずなのだ。
いや。それだけじゃない。
それ以降の、戦後の現代日本において、そういった明治や大正の知識人の書いた本は当然、読まれた。しかし、読んでいるのだが、そういったスペンサーの「進化論=優生学」の明らかに影響を受けたような文章にふれても、それが、暗にそれを示唆していた、ということに気付かない。気付かないんだが、そういった

  • 文体

に大きな影響を受ける中で、自然にそういったレトリックを「内面化」していった、といった関係が見られたんじゃないか、と思われるわけである。

同じ論文でハクスリーはこう訴えている。「生物の世界は剣闘士のショーと同じで、かなりよい待遇で戦わされる。そこで、最も強く、最も迅速で、最も狡猾な者が、次の日の戦いのために生き残る(中略)社会は明確な道徳的目標を持つ点で自然とは異なるので、この区別をするのはより望ましく、必要である」

通俗的「進化論」は、こういった「弱肉強食」であり「競争」の比喩で語られてきた。
こういった比喩は、例えば、「受験競争」や、企業の起業・倒産を繰り返す、生成消滅といったものからイメージしやすいものと考えられた。
しかし、である。
これは変だ。なぜなら、人間には「道徳」があるからだ。つまり、人間同士では往々に、「協力行動」「助け合い」といったような行動が見られる。
この「矛盾」を、「矛盾じゃない」として自然を解釈する立場として、一般に

といった主張がさかんに行われた。自然主義は、どう主張したかというと、

  • そもそも、<道徳>なんて存在しない

と考えた。だから、人間が道徳があると思っているのは、誤謬なんだから、あるのはたんなる「弱肉強食」「競争」だけだったんだから、「矛盾していない」と主張した。
自然界には「道徳」はない。この主張は、どこか、カントを批判したニーチェの立場に似ているだろう。しかし、ニーチェは一方でカントを批判しながら、他方において、ニーチェの論理構成は明らかに、カントの枠組みの中で主張が組み立てられている。つまり、カント主義なしにニーチェ主義は構成不可能な枠組みとなっているのにも関わらず、ニーチェは自分が「反道徳」を主張することには、なにかしらの意味があると考えた。つまり、ニーチェは自分がかなり「ナイーブ」な主張をしていることに無自覚だった。

またダーウィンは『人間の由来』で、道徳、倫理、他人への共感、美、音楽など、人間特有に見える能力が、実際にはほかの動物にも(程度はともかく)見られるのを示そうとしていた。

そう。ダーウィン自身が、

  • 動物にも(ある種の、低次なものとしての)道徳がある

と主張していたわけであるw いや。それだけじゃない。道徳であり、「利他主義」は、以下の形式において、

  • 進化論的に「正当化」できる

わけであるw

ここで改めて利他主義を「ほかの個体を助けるがそのために何らかのコストを負担する行為」と定義しよう。ロバート・トリヴァースは将来、利他行動の見返り(あるいは返済の約束)がある場合に起こる利他主義を互恵的利他主義と呼び、条件によりこれが進化することを示した。相手を助けたときに損をしても、あとから同じだけ見返りがあるので、差し引き損得ゼロのうえに、お互いに助かるので、全体としてメリットが上回る。従ってそのような性質が自然選択で進化しうるのである。
(中略)
ただし、これらのシステムでは、裏切り者が出ると破綻してしまう。助けてもらうだけで何もしない裏切り者のほうが、メリットが大きいからである。従って、こうした裏切りを防ぎ、確実な見返りが与えられる必要がある。ロバート・アクセルロッドは、相手が協力すれば自分も協力するが、相手が裏切ったら自分も裏切る、「しっぺ返し戦略」が、進化することを示した。
このように利他行動を維持するルールという意味で、道徳的判断や行動規範に該当する性質の進化が説明できたことになる。

そう。すでに、現代の進化論は、「道徳」の

  • 形式

の存在を「証明」しているわけであるw しかし、こう聞くと、「反道徳主義者」は血相を変えて、反論してくるだろう。

  • こんなのが道徳のわけがない

って。上記でゲーム理論によって定式化されているのは、いわゆる「目には目を」の「仕返し」を言っているに過ぎない。これは、「刑法」のようなもので、一般に私たちが「道徳」と呼んでいるものは、なんらかの

  • 善意識

のようなものを想定していたはずだ(当然、ニーチェが「キリスト教道徳」として非難したものも、そういった「内面」の「清らかさ」「穢れなさ」「美しさ」といったものとして、その非存在を痛罵していたはずだ)。しかし、いまさら言うまでもなく、なぜかこういった批判をする人たちは、なぜカントが

  • 形式

と内容を、あれほど区別したのかを忘れている。そう。そもそも彼らは、自分が「カント主義者」でないことを自覚しているはずなのに、なぜそれなのに、カントを批判できると思ってしまったのかが不思議なのだ。
(いわば、カントがあれほど重要だと考えた「形式」の「直観性」に対して、なぜか、功利主義者はこれを完全に無視する。その鈍感さが、彼らの限界なのである...。)
道徳の「実在」を疑うと言うとき、これは何を言っていることを意味しているのだろうか? 確かに、一人称や三人称で道徳を定義しようとするとその難しさはあるのかもしれない。しかし、これを二人称で考えると、むしろそれを疑うことの方が意味が分からないようなことになる。例えば、東浩紀は以前はあれほど宇野常寛と仲がよかったのに、ある日から、完全に袂を分かった。というか、一方的に宇野の方が東浩紀を無視するようになった。というか、東浩紀はそうやって、彼の下を去っていった「弟子」がたくさんいる。このことは、東浩紀にはなんからの、人とつきあう上での

  • 欠陥

があるんじゃないのか、ということを暗に示しているように思われるわけである。
道徳は「存在しない」と言うとき、そのことが、二人称の関係において、相手に「完全に人間関係を止めさせる」くらいの、倫理的に、ありえない行動をやってしまうことになっている。なんらかの、

  • 人格的欠陥

を来している、と言うことはできるのかもしれない。
例えば、トロッコ問題についての以下の最近の研究成果は興味深い。

実はこの道徳的判断に、オキシトシン受容遺伝子(OXTR)の多型が関与すると指摘した研究がある。この研究によれば、一人を犠牲にしてトロッコを止めるかどうか、つまり功利主義的に最大多数の最大幸福を採用するか、それとも結果にかかわらず、人に危害を加えたり反道徳的な行いをしてはならないという義務論的立場をとるか、その判断に単一の遺伝子多型が影響を与えている可能性があるのだという。
また、OXTRの変異は共感性とも関係することが知られている。道徳性と共感の関係は複雑で未知の点が多いが、共感性に関与する脳部位を損傷すると、前記の問題で功利主義的な立場をとる傾向が強まるという。

少し考えてみよう。功利主義は「道徳は存在しない」と主張する。道徳なんて存在しないんだから、道徳について考えること自体が無意味なんだから、代わりに、功利主義は「功利計算」しよう、「功利計算」で

  • 代用

しよう、と主張する。しかし、そのことは結局のところ、道徳(=カント主義)は存在しない、と主張していることと同値なのだ。
功利主義は、行政政策としては常に行われている政策策定だと言えるし、そもそも経済学は功利主義だ。しかし、そのことと、カント主義の否定(=カント主義の功利主義での代用)とは、まったく別の話だ。
ここで逆に考えてみよう。なぜ、功利主義者は、功利主義を「万能」と考えるのだろう? もしかしたらそこには、上記の引用にあるように、

  • 遺伝子的な根拠(=OXTRの共感性に関与する脳部位の損傷)

に理由があるのかもしれない。上記の例で言えば、東浩紀はこの遺伝子の欠損がある(=ある種のサイコパスである可能性)、といったように。
ところで、スペンサーの『社会進化論』にしてもそうだし、上記で検討したように、進化を「弱肉強食」「競争」と考えることには、なんらかの「定向進化」といった発想が関係している。つまり、

  • 進化というのは、そもそも、「一定の方向」に向かって進んでいくものだ

という考えである。まあ、もっとありていに言えば、

  • 進歩

である。例えば、私たち人間社会の文化は「原始的な単純なものから、複雑で高度なものへと発展する」と一般には考えられている。そして、進化もそうなのだろうと、通俗的進化論は解釈されていた。
ところが、ダーウィンは『種の起源』で、まったく反対のことを書いているわけである。

「すると突然、黒い塊が沼地から立ち上がり、鋸歯状に並べた鉄板のように輝いたかと思うと、すぐに窪みに消えてしまった。つぎ の私は土の色と同じ薄い灰色のものが、霜にやられた土の上をあちこち走り回り、痩せた草を齧っているのに気がついた。突然、1匹が飛び跳ねたのが見えた。さらに20匹ほど目に留まった。初めはウサギか、小型のカンガルーかと思った。しかし、近くまで跳ねてきた奴を見て、どちらでもないことがわかった。尾がなく、灰色の直毛で覆われ、それが東部でスカイテリアの鬣のように太くなっていた」
「そいつらは私を恐れず、ひとけのない場所のウサギのように、大胆に草を齧っていた。標本が手に入りそうだと思った私はマシンから降り、大きな石を拾い上げた。すると1匹が射程距離に入った。うまく石が頭に命中し、そいつはたちまちひっくり返って動かなくなった」
「あの小動物のかすかな人間味に、私はひどく困惑した。考えてみれば、肺魚があらゆる陸上の脊椎動物の祖となったように、人間性を喪失した人類が、最終的に多くの種へと分化しないわけがないのである」
1894年、ハーバード・ジョージ・ウェルズが送り出した小説『タイムマシン』は、遠い未来を旅してきた時間旅行者が、冒険を仲間に聞かせる物語である。ウェルズが描いた未来は、当時の大衆が抱く進歩した幸福な未来像とはかなりかけ離れたものだった。80万年後の世界、そこにはひ弱で言葉もつたない子供のような姿のエロイと、地下に住み、狂暴で恐ろしい姿だが光に弱いモーロックという2種類の人類が住んでいた。モーロックは夜間しばしば地上に出て、エロイを襲って食糧にしていた。彼らは19世紀の資本家と労働者が別の種へと分化し、それぞれが独自に適応進化を遂げた結果だったのである。

そう。進化には「方向がない」わけであるw 完全なランダムなのだ。
ダーウィンがそう言っているわけである。
しかし、もしもダーウィンのこの言ったことが「正しい」とするなら、上記の引用にあるように、H・G・ウェルズの『タイムマシン』において、未来の人間は、

  • 退化

していることだって「ありうる」ということになる。しかし、この描写はショッキングである。未来の人間が、もう一度「未開人」に戻っているという記述はそれまでの、キリスト教的な人間観に完全に反している。
そして、このダーウィンの示唆への

  • 不安

が、その後の歴史の「優性思想」の世界的な流行の原因となった、と考えられなくもないわけである...。

自然界では生存闘争と適者生存で強い者が勝つ、と単純に信じていた彼らは、弱者も生き残ってしまう人間の文明社会を、そうした進化のルール----自然の法則から外れてしまったもの、と見なしていた。人間もその社会も自然の法則に従うべきだ、と考えた彼らは、自然の代理人として彼ら自身で手を下したのである。それが彼らの考える進化を裏付けとした優生学だった。しかし結局のところ彼らの企ては、単純化した進化と自然の法則と科学を悪用して、彼らの人種差別思想と偏見とを、正当化するものだった。

1907年、ピアソンは著書にこう記している。
「(国家の "浄化" は)これまで人と人、人と自然、国家と国家が対抗する闘い、つまり自然選択の作用で行われてきた。その結果、この自然のプロセスを肯定できないほど、私たちの倫理観を発達させてしまった。100年前、我々はまだ犯罪者の大半を絞首刑にしたし、植民地開拓などというまだるこしい言い方をせずに、流罪という終身刑にした(中略)国家を "浄化" するための厳しい選別が常に行われていたのだ。肉体的、精神的に弱い者が生き残り子孫を残すチャンスはほとんどなかった。ところがこの1世紀のうちに、人間的な同情心は急速に高まり "民族浄化" のほとんどを阻止するようになった」
ピアソンは自然選択によって発達した人間の同情心が、今度はそれまで作用してきた自然選択の効果と対立するようになった、と主張する。その結果、本来なら社会から除去されていた「不適格」な人間が増えて、全体的に人間の資質が劣化しつつある、というのである。ピアソンは今さら同情心を後戻りさせることはできないとしつつ、こう唱える。
「私は、国家の破滅へと導かれぬよう、あらゆる同情と慈愛を整理し、人種的利益を高める方策をとるよう要求する。これまで無意識のうちに自然のプロセスで行われてきた国家と民族の "浄化" を、自発的に実行しなければならないときが来ている」

ナチス・ドイツが優性思想から、障碍者の殺処分や、ユダヤ人虐殺を行ったわけだが、ほとんど同じようなことをイギリスでもアメリカでも、その地の科学者たちは推進していた。そして彼らは、そもそも、ダーウィン以降の研究者の直系の人脈だった。つまり、

  • ダーウィンの直系の研究仲間が、積極的に優性思想を社会運動として活動した

わけであるw
なぜ、と思うわけだが、上記の引用にあるように、彼ら研究者たちがダーウィンが発見した進化の法則の

  • 含意(の不吉さ)

に気付いたから、ということになると言わざるをえないだろう。そこにおいて、人間社会が

  • 人工的

に作られているがゆえに、

  • 自然界においては当然、適用される「淘汰圧」がかからない(=軟弱化する)

という分析が関係している。人間社会が、自然界から「隔離」されていることで、人間が

  • 本来なら死んでいるはずの人間が、「生き延びてしまう」

ゆえに、それを

  • 劣等な遺伝子が残ってしまう

というふうに、解釈された。このことは、H・G・ウェルズの『タイムマシン』のように、「人間の退化」が必然的に起きる不安を感じさせ、それに対する「抵抗」として、優生学が模索される。
しかし、である。
少し考えてみよう。このロジックはどこが変なのか、と。この議論がまずいのは、一言で言えば、

と言っていい。そもそも、今の人間社会によって「人間が劣化している」という主張にはなんの根拠もない。だとするなら、この

  • 物語

は一体、どこから現れたのか? それは、もともと彼らが「ラマルキズム」や「定向進化」、つまり、

  • 進歩

思想を前提に社会を考えていた、というところから生まれている。つまり、彼らは「努力すれば、その努力は報われる」といった(キリスト教的な)労働倫理を前提にこの社会の秩序を考えていた。そしてその前提から、

  • 富裕階層の遺伝子価値は、貧困層と比べものにならなく高い

ということが「科学的」に証明されるはずだ、と考えていた。
しかし、その前提がダーウィンによって失われたとき、彼らは

  • 不安

になったわけである。
よく、進化論と科学の発展は矛盾しているんじゃないか、と考えられる。というのは、上記にあるように、そもそもダーウィンは進化に「方向がある(=必ず、発展する)」という考えを否定している。進化の「方向」は完全にランダムだ、というのがダーウィンの主張だった。しかし、そうだとすると、科学哲学や科学史において、

  • 常に科学は「進歩」している

と受け止められることと整合性がとれないんじゃないか、と考えられたわけだ。科学は、ニュートン力学から特殊相対性理論一般相対性理論といったように、

  • 前の理論を踏まえて、それを含んだ形で(特殊な単純化されたものとして)、理論が「拡張」される

と理解された。こうして科学は発展する。これを「メタな立場」で解釈すると、

  • 科学の運動の担い手の人間によって作られ続けている科学は常に「前に進歩している」

ということになり、結果、「人間は進歩し続けている」ということになり、このことは、ダーウィンの進化論と矛盾しているんじゃないか、というわけである。
しかし、この仮説にはある一点において欠陥がある。それは、必ずしも人間は未来に生きているとは限らない、ということだw
一方において、通俗的進化論は、「それぞれは生き残るために、競争し続ける」と言っておきながら、他方で、なぜ「科学者は科学活動において、その進化論の命題から逃れることができる」だろうか? つまり、科学者が優生学を主張するとき、

  • 貧困階級を殺すべきだ

と主張したとしよう。そうした場合、当り前だが、その科学者の主張が、その貧困階級の科学者から「反論されない」ということになる。つまり、その科学者の身分が安泰になる。
いや。そんなことはあっちゃいけない、と言うかもしれない。科学者は「公平」「中立」でなければならない、と。しかし、そもそも

  • 弱肉強食

通俗的進化論を認知バイアスによって、信じてきた連中がなぜそれを信じていたのかって、

  • もしもそれが正しければ、自分の「エリート」としての「正当性」が保障される

っていう、貴族階級としての「差別」の正当理由を獲得できるから、というもくろみがあったわけだ。そして、自分が「信じている」弱肉強食を「科学」に適用するなら、

  • たとえどんな「反則」を行ったとしてでも、自分が「貴族階級」としてあることを正当化する「生物学的な根拠」を<でっちあげ>なければならない

という強迫観念に、無意識に動かされることは、言ってみれば、「自らの仮説を自分で証明する」というわけで、合理的だ、とすら言いたくなるわけだ...。