無限判断

以前、このブログでも紹介したことがある、石川求『カントと無限判断』であるが、

伊野連『カント哲学における影響関係』

の「第I部 無限判断論」を読んだら、石川の本における「無限判断」論について、研究をされていて、私も改めて、石川のこの本を読んでみた。
おそらく、石川のこの本はこの問題を研究する上では、必要十分な記述なのだろうと思うが、哲学研究者独特の晦渋な文章となっていて、「この」問題の背景にある思想的な相互関係は分かったから、つまりはようするにどういうことなんだ、というのが、通読しても、ぴんとこなかったりするw
そういった人には、いったん上記の伊野の該当個所を読んでみるというのも、いいかもしれない。
まず、話の始めは、カント『純粋理性批判』において、有名な判断表が登場する、A072、B097に登場する「無限判断」について、カントが説明している有名な個所である。

【4】もし私が魂についてそれは死すべきものではないものであると言うのならば、或る一つの否定的な判断を通じて私は少なくとも一つの誤りを防いだことになるであろう。【5】というのも、この「魂は死すべきものではないものである」という文によっては、私は魂を死すべきものではないものという無制限の領域に置いたわけだから、確かに論理的な形式からは実際に肯定したのである。[著者による試訳]
カント哲学における影響関係 ―形式論理学、観念論から量子力学、AI まで―

ここの「(魂は)死すべきものではないものである」の個所が、カントの時代に出版された「カント原著」と、その後に、「アカデミー版」として、現在、世界中の人がカント全集として読んでいる「エルトマン改訂」の二つが、以下のようになっている。

カント原著

  • A版【4】nicht sterblich 【5】nicht sterblich
  • B版【4】nicht sterblich 【5】nicht sterblich

カント哲学における影響関係 ―形式論理学、観念論から量子力学、AI まで―

エルトマン改訂

  • A版【4】nichtsterblich 【5】nichtsterblich
  • B版【4】nicht sterblich 【5】nichtsterblich

カント哲学における影響関係 ―形式論理学、観念論から量子力学、AI まで―

まず、ここで「nicht sterblich」と「nichtsterblich」の違いであるが、古くはアリストテレスの『論理学』における、「AはPでない」と「Aは非Pである」を、あたかも「形式論理学」的に、アリストテレスが分けた形式的な記載方法に対応している。
その場合、「Aは非Pである」は、一般論理学としては、「肯定文」として処理される。つまり、一般論理学上は、これは、たんなる「肯定文」だ。なぜなら、そもそも一般論理学は、文章の「内容」を評価しないからだ。
そう考えると、アリストテレスがあえて「非P」という「形式」を、まるで、一般論理学に一つの「論理学的なルール」であるかのように、記載したのはミスリーディングだった、ということになるだろう。
つまり、ここでアリストテレスが「非P」という形式を導入することで、意味しようとしていたのは、当時の古代ギリシアにおいて、よく知られていた、ある「内容」を一般に示すもの、として意図された、ということが分かるだろう。
それが、ここで問題になっている「無限判断」である。

そうするとわれわれにとって<有>(あるもの)もまた、他のさまざまなものがあるだけ、ちょうどそれだけの局面にわたって、ないということになる。なぜなら<有(ト・オン)>(あるもの)は、それら他のものではないのであるから、それ自身一つのもんじょでありながら、他方ではしかし、数のうえで無限にある(アペランタ)他のものではないからだ。[257 A]

こう語ったのは古代ギリシアプラトンである(『ソピステス』)。

通常の区別には、暗黙の共通基盤が前提されている。たとえば「青は緑でない」における否定はあの「反(アンチ)」であり、これが否定判断である。主語と述語は色という類を共有する。これにたいし「青は整数でない」の否定は<非(ノン)>であり、これが<否定>の無限判断であって、ここには主語と述語をつなぐ鎹(かすがい)が存在しない。
カントと無限判断の世界

大学で数学の授業を受けると、最初に「集合論」とか「位相空間論」なんてものを学ぶ。ここで、大学の数学で使う基礎的な概念を学ぶのだが、最初に、いわゆる「全体集合X」なるものが登場する。
この「全体集合X」だが、例えば、解析学であれば、実数Rや複素数Cが「公理」として定義されてから始まったりするわけで、まあ、あまり意識しないだけで、それぞれの数学の分野には、これに対応するものがあったりする。
こういった事情は、有名なラッセルのパラドックスがあって、いわゆるカントール集合論が深刻なパラドックスになるということで、公理論的集合論ZFCが定義されるわけだけど、ようするに、あまりにも広すぎる集合は禁止したわけだ。
一般論理学、まあ、記号論理学と言ってもいいんだけど、その述語論理において、表面上は文R(x)のxの範囲は定義されない。そりゃそうだ。だって、記号論理学は集合論じゃないんだから。しかし、

  • ∀xR(x)
  • ∃xR(x)

と記述したものと、

  • ∀x∈XR(x)
  • ∃x∈XR(x)

と記述した場合では、その意味は全然違うわけだ。後者は、先ほどのように、「全体集合X」によって、移動する範囲が制限されている。上記の例で言えば、「青、緑∈色」となる。他方、「青は整数でない」という表現は「カテゴリーエラー」を起こしているわけだが、しかし、これが文かどうかは、その定義によって決まるわけで、先ほどの

  • ∀xR(x)
  • ∃xR(x)

のようなものでは、xが移動できる範囲に制限がないのだから、言ってみれば、こういった文さえ相手にしなければならない、みたいなことになっているわけで、こんなものをほっておいて、ラッセルのパラドックスみたいなことにならないのかな、とは一言言いたくなる、というわけだ。

分けてはならぬ−−−−この禁則を鉄の掟とするパルメニデスは、二つ以上の多を背理とみなした。二つを認めるやいなや、その間を三つと数えなければならず、これが限りなく続いてしまうからである。「間」は呪わしき無限の泥海なのだ。あのアキレスと亀がそうであったように、(分かたれた)二者がいくら無限に接近しようとも、やはりその間には無限の隔たりを考えることができる。ここにあっては、限りなく近づくことが、じつに限りなく遠ざかることなのだ。
カントと無限判断の世界

このアキレスと亀パラドックスの件だけど、じゃあ、大学数学でこれはどうなったのかって、例の「イプシロン・デルタ論法」ですよね。つまり、関数の値の稼動域のオーダーが、変数の値の稼動域のオーダーによって、

  • スケール化できている

という形に定義を変えちゃったんだよね。だから、こうすることで、そもそものアキレスと亀の「物語」的な説明のレトリックを表面上、消した、ってわけなんだ。
なにか、けむにまかれたような印象を受けるかもしれないけど、そもそも、日常言語の概念が、それぞれで、さまざまに「矛盾」しているなんていうのは、もっと、いろいろあるはずなわけね。
しかし、場の量子論に登場する、ファインマン経路積分だけど、かなりの場合で収束しないわけ。でも、考えてみると、自然界って、そんなものに満ちあふれているんだろうね。その波の変動が、上下でいつまでも振幅していて、数学モデルとしては収束しないし、積分を発散するんだけど、たとえそういった場合でも、自然界は

  • なんらかの答えにはなる

ってことなんでしょう。だから、確率論における正規分布みたいに均等な確率で分布する。
カントの時代から比べて、現代科学、特に、場の量子論においては、そもそも「すべては波」と考える、ということになった。つまり、物質も波。じゃあ私たちが現在認識している物質はどう現れるかだけど、その波の中でも、物質的挙動を始めるものとして、「定常波」がその出発となる(狭い筒の中で波を発生させると、狭い中では、とることが可能な周波数が限られているので、最終的に定常波になるが、こういったもの)。そういった定常波が、いろいろに複雑にまとまっていった先に、原子でありが現れる。大事なポイントは、そもそも波には「固有名」がない、ということ。つまり、それぞれに「区別」がない。まあ、重ね合わせの原理を考えれば当り前なんだけど。しかし、そういった波が、「定常波」となり、粒子的性質をもち始めて、それぞれに複雑にたくさんの「定常波」が相互に関係しあってくると、単純に波としての性質以外が現れてくる。
そして、場の量子論を決定的に規定しているものが、いわゆる「不確定性原理」と呼ばれているものだが、これは一般には、一つの粒子の物理量の一つを測定したら、その他の物理量をそのレベルで測定することはできない、という「測定」の問題と考えられているが、むしろこの原理を、この世界の物理的性質と考える方が、さまざまな観測結果からは整合的だ。つまり、この性質を適用すると、

  • 確率論的に、「真空」の宇宙空間に、一定の割合で粒子の「生成」「消滅」が繰り返し行われている

という結論になる。つまり、「真空」は「なにもない」じゃないw 勝手に生まれて消えてを延々と繰り返しているw
しかも、超ひも理論においては、現在私たちが認識している3次元に対して、この世界は11次元と解釈されている(その他の8次元は、ちょっとテクニカルな数学的操作をやって、この3次元に丸めこまれているイメージ)。
どうだろう。カントの時代の素朴な、ニュートン力学とは随分と違ってしまったなあ、と思うだろうかw じゃあ、カントが考えたことは無駄だったのか? いや。カントは、そもそも

  • 区別

の話をしている。ここまでの量子力学の話はあくまでも「経験」の話だ。つまり、カントの言葉ではそれは「現象」と呼ばれている。そして、この現象をどこまでも追及していく学問としての、自然科学という学問分野の「独立性」を、そもそもカントは認めている。じゃあ、カントはなにをやったのか。他になにをやったのか、ということになってくる。
カントの原文が両方とも「nicht sterblich」となっていたのにも関わらず、アカデミー版全集の編集者のエルトマンは「nichtsterblich」と変えた。この意図が、アリストテレス流の「非P」といった「論理形式」の、いわゆる「無限判断」であることは、いったん分かるとしよう。しかし、その意味が、変わっている。上記の文脈において、無限判断とは、「青は整数でない」といった文章を言うのだった。つまり、

である。先ほどの大学数学における「全体集合X」のように、その集合の中の元は、類によって分類できる程度には、主語と述語が有機的に意味のあるものとして使われている文法の範囲なら、否定は、ある集合の部分集合の「補集合」という形で、反転の関係が読みとれる。「否定判断」と言っているわけだが、それに対して、述語にまったく文脈もなにも関係ない述語をもってきて、くっつけた場合、「青は整数でない」のように、カテゴリーエラーを起こした、トリビアルな間違い、ということになる。
しかし、である。これにまったく、反対の解釈をした人が、コーエンである。

コーエンによれば、まさに無限(Unendliches)という概念が "無限判断" に固有の「表現(Ausdruck)」[Co-LRE 87]である。
無限は有限のたんなる否定ではない。「むしろ無限のなかに、......[有限の]本来の存在根拠がはじめて設定されなければならないし、こうして否定が防止されるだけではなく、[有限という]肯定も超えられ、そして根拠づけられ」る[Co-RV 72]。つまり、無限判断は肯定を「はじめて」根拠づけるような無、すなわち「絶対的な無ではなく、相対的な無(Nichts)」としてまさしく「根源」を意味する[CoLRE 105, vgl. 117]。彼はこれを「アルキメデスの点」」[ibid., 38]とも呼んでいた。
とりわけ重要なのは、「連続性が無限判断を導く」[Co-PIM 35]こと、あるいは、無限判断の表現するものが無から有(Etwas)への「真の移行(Ubergang)」[Co-LRE 91]にほかならないことである。(中略)
さらには、無限のほかにも不滅や非凡のたぐい。私たちは日常でもよく用いるこれらの表現も "無限判断" の立役者となる。それらは「見かけの(scheinbar)無」[ibid., 119]であり、「否定の見かけ」[Co-CEM 93-94 101]をもつにすぎず、私たちはわざわざこうした無=否定を「媒概念(Mittrelbegriff)」(Co-LRE 104]ないし「方便(Opperationsmittel)」[ibid., 89]として活用するとおで、すなわち、あえて「無の迂回」[ibid., 105]、「無の迂路」[ibid., 84]をたどることで、真正の肯定がえられる。「判断は、有をその根源において発掘しようとのぞむならとくに、[そうした]冒険的な迂路を避けてはならない」[ebd.]というのである。
カントと無限判断の世界

神はなんであるか、神の本質はなにか、神はどのような属性をもつのか。マイモニデスは、私たち人間はしかし、厳密に考えれば神にはいかなる属性も帰すことができないと考える。なぜなら、帰しうるとすれば、私たちをふくめたこの世のすべてのものがそうであるように、神も複数の(本質的あるいは付帯的)属性をもつことになってしまい、この多性が、神の唯一性という大原則に矛盾するからである。こうして、神については否定的にしか語りえないという(いわゆる)否定神学の主張が、マイモニデスに帰せられるならいとなる。彼は主著である『迷える人々のための導き』の第一部第五八節でつぎのように語っている。これも後で振り返るために傍線を引く。

私たちが、神は無力ではない(il n'est pas impuissant)というとき、これは神の存在が、神以外のものどもを存在させるに十分であることを意味する。[Maimonide 1964,vol. 1 LVIII, 244. ローマ数字は節番号を示す]

さてコーエンによれば、この「神は無力ではない」という「欠性の否定」が "無限判断" と実質的に同じものであり、これは「「無力ではない」という[さしあたり否定的な]属性が、神以外の存在者にとっては[創造の]根源である」[Co-CEM 101. 強調コーエン]ことを物語る。この "無限判断" が示唆する神の行為の「属性は、[゙「有力」という]肯定的属性よりも豊かであるがゆえに、よりポジティヴである」[ebd.]。こうしてコーエンは、「欠性の否定」が表現する否定的属性と神の行為の属性とがマイモニデスにおいては「等置(Gleichstellung)」[ibid., 102]されていると理解し、その典拠として(意外にも)第五九節の或る文章を引いている。ここでマイモニデスは先だつ第五八節の説明を振り返り、私たちが神の属性を云々できるのは、

それが行為の諸属性であり、すなわち(oder)それらが欠性の否定を意味する[ebd. vgl. Maimonide 1964, vol. 1, LIX, 258]

場合でしかにことを再確認していると、つまり「行為の諸属性」を「欠性の否定」で "いいかえている" と、コーエンは読解する。
カントと無限判断の世界

コーエンは、アリストテレスが、一般論理学の意味で、「非P」を「肯定文」と呼んだのを、そのものの意味で、

  • 肯定文

と解釈する。つまり、これは「(意味的にも)否定していない」とw どういう意味? って思うだろう。ここでコーエンはマイモニデスの「否定神学」も、自らの意図を表すものと解釈する。つまり、最初のカントの引用で言えば、

  • 魂は<不死>である
  • 神は<不死>である

という表現における、この「不死」は<根源>において、否定から反転して「なんらかの肯定」だ、と理解する。「神については否定的にしか語りえない」という否定神学は、それだけなら、そこまで問題のある表現ではない。つまり、これがなにを言おうとしているか、というのを考えれば、という意味だが。とろがこれを、コーエンは自らの「無限判断」解釈の延長で、「無限」、「不滅」、「非凡」。こういった表現によって示すものを、そのままの意味で「肯定的」ななにかと考える。それは、神においては、無限でさえ「(人間にとっての)有限」であるかのように、たちどころに理解する、といったような形で。
このコーエンの「解釈」がなぜ問題なのかというと、そもそも、「無限判断」というのは古代ギリシアから、ずっと慣用的に使われ、時の人々に意識されてきた言葉だからだ。つまり、このコーエンの解釈は、どう考えても、こういった伝統的な使い方から逸脱している。考えてみてほしい。だとするなら、なぜカントがコーエンの意味で、この言葉を使うなんてことがあるだろう。当然、古代ギリシアから続く、伝統的な意味で使っているんじゃないのか、と。
さて。
ここで最初の話に戻る。アカデミー版全集において、ハルトマンは「nichtsterblich」という修正を行ったわけだが、石川求であり伊野連は、この修正は「不要」だと言う。しかし、困ったことに、まず、日本のほとんど全てのカントの翻訳は、このハルトマン修正を踏襲した上で、さらにコーエン的な翻訳によって、上記の印象個所の一方を「神は不滅である」と訳している。そして、世界中のカントの著作の、かなり多くが、アカデミー版全集を採用している。つまり、こっちが業界的には

なわけであるw
どうして、こんなことになってしまったのか?

(すべての)訳者が注(3)のごとき【5】の "改訂" を、最低限でもやむなしと考えるよう促される最大の理由は直前の【4】に「一つの否定[的]判断」というなるほど決定的ともみえる表現が使われている事実である。すでに序章で骨格を述べておいたが、ここで訳者および読者は以下のように推測したにちがいない−−−−この【4】でカントは、いわゆる判断表の一項をなす否定判断一般の例解をしたのだ。しかも文例における述語表現は原語で 'nicht sterblich' となっていて、否定辞と述語概念に語の間隔が開けられている。これにたいして、【5】で例解される判断については、カントはそれがなに判断であるかはいわないものの、ともかくそれが「肯定的発言」だといっているではないか。となれば【4】と ”対比して" この【5】ではたんなるコプラ否定の否定判断と区別されるような判断、すなわち無限判断が問題になっているのでなければならない。しかしそうだとすると、原版で【5】の判断例の述語表現が【4】と同じ間隔の開いた 'nicht sterblich' となっているのはおかしい。
カントと無限判断の世界

これに対して、石川の反論は主に二つである。

  • 【4】は接続法第二式で書かれている
  • 【4】で「一つ」「少なくとも一つ」といった数を意識した表現が用いられている

まず、前者はこの後の述べられる結論を、ある意味で、論点先取りをするような、なんらかの「前触れ」「伏線」的な効果を狙って、挑発的に予言的に語っている、ということである。

ここでカントは、魂が可死的であるという肯定判断に対抗してそうではないという否定つまり「反」肯定を問題にしているのではない。そうではなく、魂という「なにか」が可死的か否かという述定に突き進むその「だれか」に向かって、あなたのように魂の認識を(肯定であれ否定であれ)拡張しようとする「知的活動」そのものがじつは成り立ちませんと<否定>的ないし<非>肯定的に教え諭しているのである。
カントと無限判断の世界

第二の点とはすなわち、【4】が「一つ」という数に気を配っている、ということである。というのも、この 'ein verneinendes Urteil' すなわち「一つの否定的判断」を、無限判断の可能的内実たる無際限の否定なかの「一つ」と考えているからである。
カントと無限判断の世界

実はこの【4】と【5】の直前でカント自身が断っているのだが、一般の形式論理学においては、肯定(判断)と否定(判断)の二つがあるだけ。その理由は、形式論理学は、文の「内容」に介入しないから。あくまで、その外形的な形式にしか興味がないから。
対して、これからカントが作ろうとしている超越論的論理学においては、形式論理学とは違って、文の「内容」に一貫して関係しようとする。つまり、こちらでは内容こそが、判断の基準になる。これが意味することは、

  • 【4】と【5】の例のどちらも、形式論理学では、たんなる否定文でしかないけど、超越論的論理学では、その内容を考慮して、どちらも「無限判断」と解釈される。

ということになる。つまり、カント自身がこう言っているんだから、無限判断だからって、(わざわざ)アリストテレスのように「非P」のような表現を使わない(それは内容が示す文脈によって区別される)、わけである。
まあ、そう説明した上で、石川はなぜこのような「誤解」が現在に至るまで続いてしまったのかについては、さまざまな仮説を提示している。その一番の理由が、カントにとって『純粋理性批判』という本が、当時の専門家たちに向かって書かれたものであったため、初歩的な解説のようなものをすっとばして、その主題に直接向かい合って書いていたから、となる。まあ、日本の専門家のような、素人みたいな連中には敷居が高かった、というわけだ。
ここまで話を聞いてきて、おそらく、多くの人が思っていることは、

  • なんでカントは、この「無限判断」というものを、ここまで、こだわったんだろう

じゃないか。これのなにが、カントにとって大事なのか。無限判断とは、ようするに、「青は整数でない」といったような、トリビアルな否定文で、述部が主語の意味の増大に、まったく寄与していないタイプの「カテゴリーエラー」系のコンピュータが作ったような文のことを言う。こんな

  • どうでもいい

ものが、なんでカント哲学では重要だと言うのか。
それが、実際にカント哲学は、この「無限判断」であふれているからだw

よく人はいう。カント哲学は区別の哲学であると。そのとおりであろう。とはいえ大事なのは、その区別が共通する類を分けるような分類ではなく、<否定>による類そのものの拒否にほかならないことである。分かつカントが重用した諸区別には無限判断が控えている。批判哲学において無限判断が別格の位置をあたえられることはこのようにして必然となったのである。
感性は悟性に、現象は物自体に、理論理性は実践理性に、それぞれ連続していることを、少なくとも両者が架橋できることを人は欲するだろう。しかしカントは、これらの対、いや本当は対にもならないし並べて "二つ" と数えることもできないこれらが、異次元であり、別世界であることをまず力説する。もちろんこれは、いかなる二元論の肯定にもならない。Aであれ非Aであれ、なにも肯定してはいないからである。しかし、このような<否定>であってはじめて、一元論は制止されいいかえれば一元論的全体論という誤謬は防止される。
類を共有しない非連続のものを他者というなら、現象にとって物自体はまさしく他者である。現象から出発して物自体へと通じる道は閉鎖された。この閉門は、後者すなわち異次元の<非現象>が現象を限界づけることによってなされた。もうここにおいて優位に立つのは現象ではない。限界づけという事態の文法を重視するかぎりで、優位はむしろ(ただしネガティヴな意味における)物自体にある。
興味深いのは、この非関係としての "関係” がカントにおいては、自己と非自己の間にも成り立つことである。なるほど彼は他者という用語を使わなかったが、次章において明らかにするように、現象と物自体の非常に微妙な "関係" を、彼が自己と非自己にもみていたことはまちがいない。たとえば、私と公の問題として。
カントと無限判断の世界

考えてみてほしい。無限判断とは、

  • 青は整数でない

だった。では、これと平行して、

  • 物自体は現象でない

を並べたら。前者は、あまりにもトリビアルなまでに自明な文だろう。じゃあ、後者は? カントはこれが「同じ」だと主張しているわけだw なんだこれは、って思わないか? これが、カント哲学なんだ。

これら後者は、カントは「青は整数でない」と同じタイプであり、同じレベルの文なんだ、と言うわけである。
つまり、この「区別」はハンパないわけ。本気で、マジで、言っている。なまはんかな、なんとなく「こうじゃないかな」程度の主張じゃない。もう、人生を賭けたくらいの覚悟で、この二つは「違う」と言っているの。
これが、カント哲学なんだ。そして、引用の最後にもあったように、カントは、

  • 私(わたし)

についても、同じなんだ、と言っていると読めるわけね。そう。カント哲学は、徹底した「私(わたし)」の哲学なんだ。

  • 私(わたし)は「他の人間」でない

これも「無限判断」だって言っているわけ! そう。カント哲学は、私が「牢獄」の哲学で、私はどこまで行っても、永遠の孤独にある。私は、その他の人間とまったく違う位相にいる。まあ、永井均の「私の哲学」がトンチンカンなのは、こういったカントの無限判断が、まったく、スコープに入っていないことで、ようするにこの人って、哲学が読めないんだろうね。
まあ、このこととカント哲学の強烈な実践理性の優位って、直接つながっているわけでしょ。カントにおいて、「私(わたし)」が、そもそも、時間も空間も作り出している。この

  • 世界(せかい)

の全てを実際には、自分が作っている。だったら、その「責任」は自分で引き受けろ、っていう自明性にあふれているんだよね。お前が作った世界なんだから、お前が責任とれよ、って。だから、徹底して、自律を求められる。お前が作った世界をどうするかはお前が決めて、お前が実践しろ、って...。

追記:
そういえば、上記のエルトマン改訂のA版とB版で違ってる理由ってなんなんだろうね。同じ文章なのにw