私はそもそも、永井均先生が言っているような「<私>問題」は
- 疑似問題
だと考えている。ここではそれについて、簡単にその理由を説明してみたい。
永井均の「<私>問題」とは、
- <私>とは、この世の中のなにものとも、その次元が異なって「違う」存在である
という主張である。よって、<私>とそれ以外を、なにか「同等」のものであるかのように考える一切の思考を拒否する。これは基本的にはデカルトの「コギトエルゴスム」の主張と同じだと言っていい。
こういった永井均であり、永井と同等の思考をする人たちはこの「<私>主義」と
の「反道徳論」を悪魔合体させる。ようするに彼らに共通した思考は
- 反カント
ということになる。カントの「道徳」論への「戦い」の延長に、彼らの「<私>」がある。彼らが言いたいのは、デカルト主義と言ってもいいが、
- 「<私>」(の思考しているもの)以外に確実なものはない
となる。つまり、彼らはデカルト以上にデカルト主義者であることを自認している。デカルトでさえ不徹底であった。我々はそのデカルトを超える。そして、その延長に、カントの「道徳」への批判が始まる。「道徳」とは、たんなる人間が作ったものにすぎない。こんなものが、自然科学と同じような意味で「真理」であるわけがない。「道徳」は全部、嘘だ。よって、すべての「道徳」に従うことを拒否する。
彼らにとって大事なのは「正しいことを言う」ことだと言えるだろう。だから、彼らがなによりも重要視するのが
- カント批判
なわけだw それは、彼らにとっての「哲学の先生」がニーチェであることから分かるように、著しく「政治的」なわけだ。彼らにとって、「カントが間違っている」ことが言えること
- 自体
が重要だった。それによって、カント主義者を「ニセ学問」として糾弾して、大学から排除することが、なによりも大事だった。それによって、自分たち「ニーチェ主義者」が大学内に存在できる場所を確保することが、なによりも優先されることだった。
モンティーホール問題とは、有名な確率論の問題である。あるテレビ番組で、ゲームを行う。司会者は出演者に、三つの扉のどれかに車がある。それがどれかを当てたら、その車をプレゼントする、と。出演者が、ある一つの扉を選ぶ。ここで、司会者は、その出演者に「ある提案」をする。まず、残りの二つの扉のうち、はずれの方の扉を開く。その上で、「もう一つの扉の方に変えてもいいですよ」と言う。
ここで、数学的確率論の問題が問われる。出演者は、この司会者からの提案を受けるべきか?
この問題については、数学的にはすでに答えがでている。つまり、司会者の提案にのった方が、「当たる確率は高くなる」。条件付き確率と呼ばれているもので、すでに答えを知っている司会者が、ある一つの扉を開いたことで、もともとの確率が変わっているわけである。
しかし、ここで「ひねくれた」ことを言ってみよう。本当に、司会者はどの扉が答えだったのかを知っていたのだろうか? なんで知っていたなんていうことが分かるのか。だったら、確率は変わらないでいいんじゃないか?
これが「<私>主義者」であるw 彼らはそもそも「知識」というものを信じない。つまり、「<私>」以外の一切について、なにかを「信頼」するということを
- (主義・心情として)絶対にやらない
のだw 他方で彼らは「科学」を信仰するw ようするに、彼らにとって関心は「打倒カント」以外にない。彼の「反知識主義」は「近代科学絶対主義」に転向して、最終的に「功利主義」という
- 妥協の産物
になり下がる。彼らにとって、なにを言うかではなく「自分が言う」ことが、世の中から、重要視されるかどうかにしか関心がなくなる。彼らにとって、「なにが正しい」かではなく、「だれが言っていることが正しいとされている」かについてしか興味がなくなる。
しかし、ね。実際にカントが言っていることも同じような話なのだ。つまり、カントの「客観」は、自然科学と深く関係はしているが、やっぱり、ある種の「文化」なわけだ。モンティーホール問題なら、
- いったん、司会者がどの扉が車があるかを「知って」いて、それ以外を選んでいると「仮定」
して、それを前提にして、
- 世の中の知識というものは作られている
といった形の上での「知識」の話をしているのに、いわゆる、永井などの
- 哲学者
という「本質主義者」にとっては、
- そもそも知識なんていうものは存在しない
といったような「不可知論」という、「真実」を言うことにしか興味がないわけで、世の中の知識の量が増加することを、徹底して邪魔するだけしか脳のない
- 社会の邪魔者
- 社会不適合者
という関係だと言えるだろう...。