ここで「文系」というのがいかにダメか、について考えてみたい。その意味は、彼らに能力がないからではない。そうではなく、彼らが
- ナイーブ
だからだ。
文系とはようするに「国語」な人たちである。自分の高校時代の国語のテストの点数に自らのアイデンティティをもっている人たちだ。それはつまりは、
- 国語辞典
をいかに暗記しているか、みたいなことだと考えていい。では、辞書にはなにが書いてあるか。そうやって見ると、そこはいわば「歴史的な記録」となっている。ある小説のある個所には、どう書いてある。といったことが次々と「例文」として羅列されている。つまり、それらの例文によって、各単語の先頭に記載されている「意味」。つまり、この辞書の編纂者たちが
- 勝手に
記述した「説明」の証明であり、理由を意図していうと読める。
ところが、である。
この辞書の説明は別に、これが「正しい」と言っているわけではないのだw つまりこれらはあくまでも、なんらかの「解釈」の一種として、辞書の編纂者集団が勝手に行っていることなだけであって、だからといって、その解釈が本当に正しいのかどうかは別の話だというわけである。もしかしたら、作者は「そんな解釈を意図していなかった」と言うかもしれない。しかし、辞書編纂者たちは、いわば「範例」が、一定の割合でみられるなら、自分の説が補強されたと考えて、自信をもって公の書物に記載しているわけだ。
つまり、しょせんはこういうものだということを認識した上であらためてこれらを
- 全体
として読むとどういうことになっているかというと、完全な
なわけだw つまり、そこらじゅうで「AはAである」と書いてあるw いやそんなはずはないだろう、と言うかもしれない。そう。一見して、それがばれるようには書いていない。でも、それはトリックで、実際はそうなのだ。つまり、説明が「循環」している。一方では、「AはBである」と書いて、他方では「BはAである」とあるのだから、つまりは、「AはAである」「BはBである」と言ってただけだった、ということに気付くというわけだ。
なぜこれが許されているのか? それはそもそも国語辞典というものが、「私たちの自明性を列挙するものだから」ということになる。つまり、私たちは辞書に「定義」を求めていない。つまり、辞書を読む以前に、私たちはその言葉の意味を
- 知っている
わけだ。そう。プラトンの有名な言葉にあるように、「私たちは、すでに知っていること以外を知ることはできない」わけだw
そうやって考えたとき、世の中のいわゆる「文系」の人たちの書いている文章が、だんだん怪しくなってくる。自称哲学者の東浩紀のエッセイは、恐しいほどに
が多い。つまり、「Aは悪である」ということをそのエッセイで証明してくれているのかなと一見、思わせておきながら、
- そもそも「A」という用語には最初から、「相手を<悪い>と非難するニュアンスが含まれている言葉」である
ということがよくある。つまり、たんに「悪は悪である」と言っているだけで、なんの情報も増えていない、ということがよくある。
さらに、メンデルが研究したのは、普通は「純系」としての性質を示す植物だった----緑色の豆をつけるエンドウからは、やはり緑色の豆をつけるエンドウが生じる。純系の植物から生じる子に大した多様性はない。われわれは「相続(インヘリタンス)」や「世襲(ヘレディティ)」という概念を、高校で学んだ遺伝子のぼんやりした知識にうっかり接ぎ木して、人間もまた純系であり、子はつねに親に似るのだろうと考えてしまう。エンドウという植物についてメンデルが語る物語は、われわれが人間について語る、「お母さん(お父さん)にそっくりね」とか、「血は争えないわね」といった物語と同じく、連続性と類似性、そして予測可能性の物語なのだ。
だが、メンデルによるエンドウの物語、すなわち純系の植物に関する連続性と類似性の物語は大きな自由度を持つヒトの遺伝の物語ではない。われわれが自分のどこに価値を置くか、自分の子どもについて何を心配するか、子どものどこを自慢に思うかは、エンドウの種子がつるりとしているかシワが寄っているかとは違う。われわれが大切に思う特徴に関係する遺伝子のバリアントはひとつではないし、ヒトは純系ではないのである。
文系は実によく、「遺伝子」を興奮して語りたがる。遺伝子こそ「この世界の真実だ」と。なぜなら、遺伝子が
- なぜ自分は「優秀」で「価値がある」かを証明する
と考えているからだ。なぜ自分は、東大に入れたのか。なぜ「自分はこの日本社会で、価値がある存在なのか」「なぜ国家は自分を、他のどうでもいい貧乏人たちへの福祉を止めて、自分を優先しなければいけないか」を遺伝子が証明するから、と。つまり、
- この東大に入ることができた自分が「優秀」であることは自明だ。つまり、遺伝子が自分が優秀で価値があると証明することは自明だ。であるなら、あとは日本という国家は自分という「エリート」を他の有象無象の大衆への福祉をやめてでも優先しなければならない。これも自明だ。
と考えるからだw
しかし、である。
いわゆる日本の義務教育で習う「国語」の授業で、ある日本語の言葉で、人間のある特徴についての一文を書いたとき、それが
- 遺伝子の「配列」の<どれ>を指しているのか?
を考えたとき、ほとんど絶望的な行為であることに気付かされてしまう。ある、人間の特徴に関する、国語の授業で使われた概念が、結局のところ、遺伝子の順列組合せとして、
- どれ
のことを言っているのかは、ほとんど絶望的な模索行為であることに気付かされる。つまり、その概念には無限の「バージョン」がある。だとするなら、それを「それ」と言うことには、そもそもの最初から、ここで問題にしている「遺伝子の順列組合せ」とはまったく別の目的で使われていたものであり、この
- カテゴリーエラー
にナイーブであることに気付かない(勉強、つまり、学校による「トレーニング」によって、それが気付かないまでに「調教」が完成してしまって、馬鹿になってしまった)というところに、文系という存在の悲劇があるんじゃないか...。
