東アジア型徳倫理学

少し前の話題だが、大変に興味深いので、改めて考察してみよう。

セリーナ選手は2度警告を受けた後、主審に対し、「泥棒」などの暴言も交えて執拗に抗議した。その結果、3度目の警告を受け、1ゲームを失った。
ウィリアムズ選手は試合後、男子の試合であればこうした警告はなく、「女性に対する差別だ」などと怒りをぶちまけた。
テニス界に男女差別はあるのか。全米オープン決勝の警告めぐり、セリーナ・ウィリアムズは怒りを込めて訴えたが... | ハフポスト

2018年の全米オープン女子シングルスでの、セリーナ・ウィリアムズ大坂なおみとの試合での出来事であるが、おそらく、この映像を見た多くの人は、ショックを受けるのではないか。
男性の審判の面前で、人差し指を突き上げ、何度も暴言を繰り返して、まったく恥じる様子のないウィリアムズ選手の姿は、対照的に試合の後で、涙を流して「後悔」している大坂選手との、あまりにもの差に愕然とさせられる。
一体、何が起きたのか?

「私は一度たりともずるはしたことはない。あなたは謝罪しなければならない。二度と私の試合の審判をしないで」
テニス界に男女差別はあるのか。全米オープン決勝の警告めぐり、セリーナ・ウィリアムズは怒りを込めて訴えたが... | ハフポスト

「あなたは私から1ポイントを奪った。泥棒」「私に謝るべき」
テニス界に男女差別はあるのか。全米オープン決勝の警告めぐり、セリーナ・ウィリアムズは怒りを込めて訴えたが... | ハフポスト

というか、問題はむしろ、試合そのものの、その「蛮行」ではなかった、と言うのが正しいだろう。

「私は女性の権利と平等、そしてあらゆるもののために戦っている。私が『泥棒』と言い、主審が1ゲームを奪ったことは、女性に対する差別発言を連想する」
テニス界に男女差別はあるのか。全米オープン決勝の警告めぐり、セリーナ・ウィリアムズは怒りを込めて訴えたが... | ハフポスト

つまり、この現象の興味深い特徴は、この「事件」が起きた数日は、むしろ

  • セリーナ擁護

のマスコミ世論の方が大きかった、というところにある。つまり、どういうことかというと、セリーナは長年、フェミニズム運動の第一線で、男たちと戦ってきた、といった実績があったらか、

  • そんな彼女が間違ったことを言うはずがない

といった思い込みがあったのであろう。単純に、彼女の言う「男女差別」があるのだから、セリーナの一見、蛮行に見える行為は、こういった男女差別環境の中では「しょうがない」と主張されたわけである。
しかし、である。
数日をして、さすがになにかがおかしい、とアメリカの人も気付いたのであろう。セリーナ批判の方が増えていった。
さて。なにがおかしいのだろう? セリーナの主張は「功利主義」的だと言えるだろう。もしも、男性選手の「暴言」が平均的にこの程度の罰則ならば、

  • それを受けてでも

やっちゃった方が「合理的」だ、と。しかし、徳倫理学はそう考えない。ここではたんに

  • 暴言

がありえるか、そうでないか、しか興味がない。ここでは、セリーナの暴言が「あまりにひどい」から、こういった裁定になったし、そのことに関して、他の事例は関係ない。
つまり、ここにおいて「規準」についての考え方が違っているのだ。徳倫理学は、そもそも、文脈依存的に「ルール」を構成していく、といった性質のものではない。単純に、「人間としてやっていいことか、そうでないか」は

  • だれだって分かっていること

という前提で、自明な形で裁いているわけである。
ここにおいて、なぜ、鬼畜セリーナは成立してきたのか、と考えてみよう。おそらく、彼女が言っている「男女差別」は、そうというより「高額賞金獲得選手優遇」とか「人気選手優遇」に関係しての方が大きいのだろう。人気選手は、それだけで、ツアーの視聴率などに響くから、簡単に選手を「失格」にできない。だから、人気選手はどんどん

  • つけあがる

わけであるw どうせ、審判なんていう、安い給料で働いている奴らは、ちょっと、言葉で脅せば、震え上がって、なんにも言えなくなる、と。
だから、どんなにテレビで写されていても、テニス人気を維持することの方を優先するテレビ局は、こういった

  • 暴言

を「消音」にして、セリーナの指を突き上げている映像「カット」して、まるで、なにごともなかったかのように、「平和な試合」だった、と

  • 演出

するわけであるw
ただここで、少し説明を付加しておきたい。上記で、徳倫理学と省略した形で説明したわけだが、どちらかというとこれは、東アジア型徳倫理学と呼ぶ方が正確なもので、もっと言ってしまえば、孔子論語に始まる、儒教のことを言っていると受けとられても、そう遠くない。
日本でも、柔道や剣道のように、後ろに「道」という言葉を使ってスポーツの名称としているわけであるが、そういった慣習はこういった考えと、それほど遠くない。こういった「徳倫理学」においては、そもそも、あらゆることに優先して

  • なんらかの人格的な完成

こそが優先されるわけで、鬼畜セリーナのような蛮行は、たんに「どん引き」されるだけ、というわけである...。

認識の外延と「内包」

まあ、ようするに、通俗的心理学の批判の話を書こうとしているんだけれど、これが思った以上に、世の中的には難しいわけでして、ようするに、いわゆる「知識人」でも、同様の誤謬にはまってしまうからなのであって、なかなか厄介なわけである。
そのことは、「知識」という言葉を使う人についての、一定の「押しつけがましさ」を感じることと関係があったりする。知識と言うとき、すでに「それ」は存在し、あとはそれがどういった性質のものなのかを語るだけ、といった姿勢でこられるわけだが、いや、まずそれが「ある」と言うことを疑っていたはずであるのに、なんでそうなるの、といった形か。
そこには、やはりハイデガーから続く、フッサール現象学的なアプローチへの「うさんくささ」があるわけで、もっと言えば、ヘーゲル的な

  • 自明性=リアル

といったような、直観的な明らかさを、なによりもの「出発点」であり、全ての確かさの前提としてしまうと、その

  • 延長上に「なにか」があるはず=なければならない

つまり、「科学の発展」の先の、「真理」への到達が、結局のところは、あらゆる前提になっているんじゃないのか、と疑いたくなるわけだ。
しかし、ね。
世の中は、そのようにできているのだろうか?
というのは、素朴に考えてもみてほしい。あるロボットがある、としよう。そいつは外界を認識している。もちろん、ロボットとして、人間に似た行動をおこなうということは、そういった能力を備えていなければならないだろう。しかし、そのことと、

  • どのように外界を認識する能力(=メカニズム)ができているか

は別なんじゃないか? その外界の認識は、その能力(=メカニズム)が働かなければ生まれないが、なぜその「メカニック」がそこに

  • ある

のかは、まったく、そういったこととは関係なく、とにかく「ある」としか呼べない形であるわけでしょう。つまり、これがここにあることは、まったくの「偶然」の積み重ねなわけである。
このことを、数学や数理論理学における

  • 外延

  • 内包

といった概念で考えようとしたとき、私たちが日常生活で直観する、男女の差を「脳」の差異で、説明できないか、というアプローチがあるが、これの困難性が一つ示しているのかもしれない、と思うわけである。
言うまでもなく、ここでの外延とは、そういった一つ一つの、私たちの男女の「脳」の差として、説明したくなるような、

  • 経験

のことを言っているわけである。では、ここで内包となんだろう、というのが、この「脳」のこと。いや、脳というより、それが「なんなのか」を、説明する

  • 概念

の私たちの「モデル」のことだと考えてもいい。
しかし、いったんこのようにして問題を設定したとき、そう簡単に男女の差を「脳」のこととして扱うことが、非常に高いハードルがあることに気付くわけである。

たとえば、これを見てください。メンタルローテーション課題というんですけれど、立体図形を頭の中でクリクリッと回して、一致するものを探す課題ですね。これって、世の中にある諸々の課題の中で一番、男女差が出やすいっていわれてます」
第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

「じゃあ、この課題での男女差ってどのくらいだろうっていうときに、横軸に点数をとって、縦軸にその点数をとった人の人数をプロットしたヒストグラムを作ります。右にいくほど成績がいい人で、左にいくほど成績が悪い人で、平均あたりに一番人数が多いという形になった時、男性と女性のプロットを比べると、女性はちょっとだけ全体的に左にずれている。これは統計的にはめちゃくちゃ有意なんです。確実に男女差がある。でも、有意だというのと、大きな差があるかというのは別で、男女のヒストグラムがこれだけ重なって、男女の平均の差よりも、個人差の方が大きいよねってくらいのものですよね。一番、はっきり差がでるものでもこれくらいですから」
すごく大事なのは、集団Aと集団Bの間に差があると分かった時、それが統計的に「有意」であったとしても、それだけで、集団Aの構成員はこうで、集団Bの構成員はこうだ、とは決めつけられないことだ。
第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

私たちが、ある人と、別のある人との間に「違い」がある、と言うとき、それは

  • より「はっきり」と分かる違い

のことを言っているわけで、ようするにそれが、日常生活における、「自明性」「リアル」の中の直観が与える「性格」なわけである。私たちが、本当に求めているのは、「これ」を説明してくれる理屈なわけである。かなりの割合で、多くの人がどうも、男女には違いがある。どう考えても、そうとしか思えないような経験をしてきた。だから、「これ」を説明してくれ、と言うとき、上記の実験結果は、

  • 統計

における「有意」性をトリビアルなまでに説明するものであっても、ここで言っている「自明性」「リアル」を意味していない。それは、むしろ、上記の説明における

  • 個人差

の、より「ギャップ」の大きい個性の方にこそ「本質」がある。だとすると、このことは何を意味しているのか? 私たちは、こういった問題にアプローチをするときに、この手法の限界に気付かなければならない。むしろ、ここで言う

  • 個人差

の「内容」にこそ、注意をすべきであり、こちらの「解明」にこそ、その「本質」があるのではないのか、と疑わなければならない、ということを意味するのではないのか。
しかし、そのことは何を意味するのか?
言うまでもない。ここでの「男女差」が「ある」という、そして、その実体こそを解明することに神秘的な意味を見出していた、その「思い込み=幻想」を捨てる、ということを意味する。
しかし、そんなことは「可能」なのだろうか? というのは、私たちは「男女差」の「原因」が知りたかったのではないのか。もっと言えば、

の立場で、経験主義(タブララサ)を叩きのめすために語っていたのではないのか? だとするなら、ここで言う「男女差」は、たんに否定さるべきものとしてではなく、その

  • 対応物

が示される形で、つまりその「実在」において、語られなければならない、ということになる。
そして、そういった「モデル」を上記の引用のインタビュー記事では、

によって、つまり、MRIやCT画像をフルに活用するような、そういった外部からの脳の「観察」によって、説明していくアプローチでその「実体」を対応させるものが示せるのか、といったことで説明している。

「84x84の組み合わせの表を男女別に作って、女性と男性の差を計算してあるんです。84ヶ所、それぞれ脳の場所の名前がついています。それで、皆さん、関心があるのは、こういった組み合わせで何が言えるだろうってことだと思うんですけど、それはわからないです。ただ、こういったもののパターン認識は、最近の機械学習が得意なので、パターンの違いを学習したAIに分類させると、約92%の精度で男女を見分けることができる、くらいのことは言えるんです。でも、これって、たぶん男女じゃなくても、これくらいの差は出るんですよね。例えば、20代の人と30代の人、というふうに比べてもやっぱり差はでると思います」
第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

まあ、結論としては「示せる」。示せるけれども、これって「年齢差」のようなものでも、たぶん同じように分類できて、さらに、「だから」ここから、なにかが示せるかは

  • わからない

といったような「モデル」でしかなくて、ってことなんですよね。
ようするに、最初の話に戻るわけです。
私たちは、毎日毎日、なんらかの「直観」をどんどん蓄積していってる。そこで、どう考えても「男女差」という、自明なまでに、リアルに、そういった差異があるようにしか思えない。そういった「経験」が、まあ、人によって濃淡はあるのでしょうが、強くインプリントされている。
これを外延と呼んだとき、それに対応する内包が、上記の文脈では、

におけるモデルということになる。とにかく、物質的にそこにあり、神経の結合の割合のようなものでみてみると、それなりの男女差はあると言っていいんじゃないのか、といったものまでは示せても、そのことが、

  • 毎日のリアル

における、直観的な自明性を少しも「リニア」に示さない。まるで、多くの「偶然」が重なって、多くの条件が奇跡のように実現したから、

  • たまたま

このモデルが使えている、といったような「かすか」な因果関係しか感じられず、これじゃない感が大きい、というわけである。
なぜ、こんなことになってしまうのか?
これを生得主義の限界であり、経験主義の一定の正当化だと言ってしまうことは簡単なのだろう。しかし、そんなことより、ここでの認識における、外延と内包の、そもそもの「メカニック」の出自の違いの方にこそ、謙虚になるべきなんじゃないのか、と思うわけである。
日々の直観。そこから、どう考えても「男女差」がある、と言うとき、そこにおける「経験」の蓄積は、あくまでも、ここで言っている

  • 認識の外延

に対応しているに過ぎなく、

  • 認識の内包

は、まったくこの「文脈」と関係なく、ただ「ある」わけである。そして、そのアルゴリズムは、恐しいまでに、

  • 余計な設計

のかきわけて、かきわけで、ほとんど奇跡的な、ある一筋のルートを辿った場合だけ、働きだす性質のものであり、しかも、「ちょっとしたこと」で、簡単にこのルートは脇道にそれ、しかもその「ちょっとしたこと」が起きるトリガーは、上記の

  • 認識の外延

とは、恐しいまでに「なんの関係のない」文脈において現れる、という、そうした性質のものだ、ということを意味しているのであって、ようするに

  • 認識の外延

の「中」で、<合理的>に推論し、到達しうるような、そういった直線的(=線形的)な想像物(つまりは、哲学的であり科学的な思考物の全般)と

  • 認識の内包

は、確率論的に「独立」の関係にあるのだから、少しは謙虚になろうよ、といったところだろうか...。