中塚明『日本人の明治観をただす』

つらつらとネットを見ていたら、以下のようなエッセイの記事を見かけた。ようするに、親日パラオと韓国を比較して、なぜこんなに違っているのか、ということを言いたいようなのだが、そのエッセイの最後の方は以下のように、しめられている:

朝鮮半島も未開拓でしたが、一応しょうもないながら歴史を積み重ねていました。致命的なのは中華思想的な発想でしょう。半島の方が中国に近いから、俺たちの方が上という、現代では理解不能なもので、日本を見下していました。
それなのに近代化も全く出来ず、いつの間にか日本が統治者になったものだから、彼らからするとプライドが許さないのでしょう。だから日本が全て悪くないと精神の安定を保てませんし、学校を作ったとかインフラを整備したとか、正当な評価は不可能になっています。
親日「パラオ」で教えられた反日「韓国」のこと(KAZUYA)(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

(そもそも、朝鮮半島を「未開拓」って本気で人様の見る文章に書いている人を始めて見たわ。下の世代の想像力は恐しいねw)
まず、最初にあらわれる「未開拓」というのは、どうも

  • 日本のように近代化された「武器」が普及していない

といったことを言いたいようで、その後の「中華思想的」というところから、その「原因」として、儒教朱子学を「遅れた」因習として馬鹿にする、まさに

を感じさせる「ヘイトスピーチ」となっているわけですが、例えば、最近、このブログでも紹介した孫崎享さんの『アーネスト・サトウと倒幕の時代』を読むと、明治維新には、ジャーディン・マセソン社が深く関わっていることが書かてている。しかし、この会社は、阿片戦争における、中心的な阿片商人なわけで、いや。日本は、阿片という

  • アジアの危機

と戦ってたんじゃないのか、といった違和感を与えられる。そもそも、ジャーディン・マセソン社は、阿片商人としての、自社の利益を理由として、イギリス本国の軍隊を動かせる実力をもっていたわけで、イギリスと阿片を分けられるわけがないわけですよね。
日本というか、長州藩を中心として日本にできた革命政府は、ジャーディン・マセソン社であり、イギリスから、西欧列強の近代兵器を、次々と購入するわけですが、この武器の購入と、

  • 武器を「製造」できる技術者を、日本に招待して、多くのノウハウを学ぶ

といったこととは、区別できないわけで、こういった「商取引」と、他方において、ジャーディン・マセソン社が

  • 阿片取引

で莫大な利益を得ることとも、並行的な関係にあるわけで、ようするに、どういう形であれ、日本の武器の購入が、

と区別できないような形において、存在していたことをよくよく理解をすれば、果して、日本の「近代化」というのが、言うほど立派なものなのか(武器の作り方や使い方をマインドコントロールされれば、そりゃ、作ったり使ったりし始めるんでしょうね、といった皮肉なのだが)、について考えさせられるわけである。
掲題の本は、最近出版されたわけだが、日清戦争日露戦争

の日本による「支配」に関係した戦争であることを最も分かりやすく説明されているんじゃないのか、といった印象を受けたわけだが、それは、ようするに時系列で、日本が朝鮮に何をしてきたのかを分かりやすく説明してくれているからだと思う。
ようするに、日本は

  • だまし討ち

を朝鮮に対して、ずっと続けたし、それ以降も、国際法なんて全然守っていない。てめえの都合で、国際法を破って、さんざん好きなようにやってきて、敗戦を迎えて、朝鮮半島も、

  • 独立

って、GHQに言われて。まあ、これが日本なんだよね。明治維新から、ずっとやってたのって、日本は暴力で、朝鮮半島を支配してきた。ここが、生命線だって、意地でも、朝鮮半島を日本の支配にし続けた。そういう意味では、日本にとってずっと、朝鮮半島

  • 特別

だったんだよね。ところが、敗戦となって、アメリカはあっさりと、日本からの朝鮮半島

  • 独立

を日本に「強制」する。大事なポイントは、この、朝鮮半島の独立と、日本の帝国陸軍、帝国海軍の

  • 解散

は深く繋がっている、ってことなんだ。これが、アメリカの戦後の「日本支配」の非常に重要な「構造」になっているわけで、日本の戦後憲法の軍隊の不保持と、朝鮮半島の日本からの独立は、決して、どちらを外すことのできない、車の両輪となっている、ということを、どこまで戦後の日本人が理解しているのか、ということになる。
ところで、なぜ帝国陸軍と帝国海軍は、日本の他の官僚制度がGHQに維持される中、まっさきに、「解散」となったのだろう?

二 右のような考えで、戦争の原因を記述するにあたり、軍部はいつも兵力をもって事態を打開しようとするが、内閣はわざと受け身の立場にたって軍事力を使うのをほのめかさないようにつとめ、つねに軍部が機先を制するために軍事力を使おうとするのをおさえ、日清戦争の開戦の当初、日本軍の行動に大きな不利をこうむらせたと言い、いちいちその例を証拠として示し、または「漢城を囲み韓廷を威嚇せし顛末」をくわしく述べ、まったくもって永久に残る胸のすくようなできごとだったように書いたり、またわが軍が牙山に清国兵がもういないのにまだいるかのように慎重に進軍した事績を書いて、暗に軍隊の動かし方が秩序だっていないことを記録し...(中略)...出征した指揮官の無謀を遠回しに批判したりする類の叙述が多く、もちろんそういうことを書いて多少後の教訓となるものがないとは言えないが、外交折衝をしている内閣も戦争を指導する大本営も、ともにひとしく天皇のお考えをうけたまわって動く機関であるから、尊俎(そんそ)の折衝、外交交渉が天皇の意志を満たすことができなくなって、はじめて国際間の争いに武力を行使することになるのであるから、開戦にいたるまでの間の内閣と軍部の意見の違いを記述するようなことをすれば、世間の人間に、元首である天皇が政治も外交も軍事も統一して指揮しておられるその天皇の権限に疑問をもたせることになり、とりわけ宣戦の詔勅と矛盾する好ましくないことになりかねない。その他、結果のでなかった軍の行動や、実行しなかった軍の計画を批評しても、実際にこれを証明することができる正否の判断や利害の結果がないわけだから、いたずらに記事を長たらしくして無駄が多くなるに過ぎない。だからそんなことは書かないようにする。
三 改めて編纂しなおす戦史では、日本政府は終始、平和にことが収まるようにつとめたが、清国政府は日本の利益や権利をかえりみず、たとえ軍事力に訴えてでも彼らの野望を達成しようとして、彼、清国が、まず我、日本に対して敵対する行動に出て、我、日本はついにこの清国の敵対行動に応じざるを得なくなった、それが戦争の発端になったのだ、ということを書いて、成果を見ない行動はつとめて省略して...

まあ、ぐだぐだ書いているけど、ようするに、日清戦争の「正史」は、明治天皇によって発表された、

の内容と「矛盾」するような軍隊の行動は、すべて、

  • 改竄

して、敵の悪逆非道な行動があまりにも度を過ぎていて、やむにやまれず、と事実をねじ曲げる、と言ってるわけ。
つまり、どういうことか?
日本の軍隊に、

  • 悪行為

って、ないんだよね。だって、あってはいけないから。天皇の「意志」に反するから。そうである限り、むしろ、歴史の方が書きかえられる。天皇の「意志」に合うように、軍は正しい行為を行ったことにさせられる、ってわけ。
しかし、さ。
ようするにそれって、別に天皇関係ないよねw なんでもいいんだ。誰の都合だっていい。なんだって「歴史改竄」するんだ。

東学農民を鎮圧するために派遣された後備歩兵独立第一九大隊のなかで、唯一の戦死者を出したのだ、一八九四(明治二七)年一二月一〇日に忠清道の連山面での連山の戦いでした。
連山を囲む山々に布陣していた東学農民軍に、日本軍の大隊本部が包囲され、日本軍と激戦になったのです。
この連山の戦いで、杉野虎吉という日本軍の兵士が戦死しました。

ところが、『靖国神社忠魂史』には、杉野虎吉の戦死が「連山の戦い」ではなく「成歓の戦闘」での戦死者一覧の最後から二番目に「五師後歩独一九大三中 明二七、七、二九 成歓 上兵 杉野虎吉 徳島」と記載されています。

こういうデタラメな書きかえを『靖国神社忠魂史』はしているのです。
なぜ、こんな書きかえがおこなわれたのでしょう。
それは日本陸軍の公式の日清戦史、『明治二十七八年日清戦史』から、この東学農民軍の凄惨な鎮圧の記録が消されたことによるからです。

まあ。こういった特徴も、GHQが、なによりも優先して、陸軍と海軍の「解散」を行ったこととも関係しているように思わなくもない。大事なポイントは、天皇であり靖国神社

  • 宗教じゃない

という建前になっていたわけで、だから、戦後、靖国神社が「宗教法人」となったことが大きな意味をもったわけであろう。
よく考えてほしい。
もしも、宗教なら「真実」が重要なはずなのだ。つまり、死者=神がどの戦いで死んだのか、は最も軽んじることのできないはずであるのに、

  • 戦争正史の編纂

の方が

  • 優先

される、というところに、アメリカの「恐怖」があるわけである。あー。日本人は「神をあざむく」ことを平気でするんだな、と。この感覚が、「理解できない」というところに、そういった日本の、ある一部の組織に蔓延していた

  • 自分たちが理解できない、不気味な慣習

を、まさに、組織ごと葬った。葬ることが、なによりも優先された、といった形式になっていたのであろう。

こうして日本軍は東学農民軍をことごとく皆殺しにしたのですが、犠牲になった農民軍の死者、三万人、傷ついたあと亡くなったものをふくめれば五万人にせまると推計されています(趙景達『異端の民衆反乱』、岩波書店、一九九八年)。

そもそも、日本の教育って、この事実を、学校で教えてましたっけ?

日本人の明治観をただす

日本人の明治観をただす

けものフレンズ2の大混乱

さて。巷では、アニメ「けものフレンズ」問題が、こと、二期の評価の段階においてまで続いている、という異例の事態が起きているわけであるが、ようするに、二期が

  • おもしろくない

と言っている人が、かなりの割合に至ってしまったことに対して、これはなんなんだ、なにが起こっているのだ、といった推測を強いられている段階だ、ということになるのだろう。
これを、一期の、たつみ監督が、二期は監督を行わないということがはっきりした時点で、多くの一期の信者が、二期への「感情的反発(いわゆる、dis)を継続していると受けとることは易しい。しかし、もしもそれだけで済まない何かがあるんじゃないのか、と考えたときに、この話は、少し、うさんくささを帯びてくる。
以前に、このブログでも、一期については比較的に、好意的な文章を書いた記憶があるが、今回、あらためて、二期を見てみて、

  • なんじゃこりゃ?

といった、かなりのカルチャーショックを受けた。
その辺りについては、以下のブログの方が、比較的によく、その特徴を捉えた分析をされている:

そしてもう一つ、本作は「ケモノ」に対する「ヒト」の影響を徹底的に描写する。
2話の「名付け」、3話の「調教」、5話の「支配」。それらはいずれも、本作の舞台においては前作と異なり、フレンズが自然体ではなくヒトの影響を受け、かつてヒトに管理されていた存在であることを露骨に示す。更に言えば、それらの影響が、物語にトラブルを生じさせるネガティブな影響として描写されている点に本作の特徴がある。2話、3話に顕著であるが、本作のフレンズはヒトがいなければ生まれない、ヒトの影響下にある人為的な存在であるが故に問題を引き起こす。ケモノの自然な習性をフレンズの特徴として肯定的に描いた前作とは、フレンズの存在自体が対照的であるといっていいだろう。
W175 N57 : 『けものフレンズ2』中間感想(6話まで) - livedoor Blog(ブログ)

そもそも、なぜ一期は、あれほど肯定的に受けとられたのか?
それは、アニメ「けものフレンズ」が最初に放映されて起きた「現象」に象徴されている。オフィスの疲れたサラリーマンが、「すっごーい」とか、

を話し始めたから、であろう。つまり、そこには、明らかに

  • 現代の人間社会への批判

があった。人間社会の、煩雑なまでに言語で、相手を丸め込むような、そういった陰湿な「人間」の

  • 大人

の「口先の饒舌さ」に対して、彼ら「フレンズ」たちの

  • 開放感

を絶対的に肯定したわけであろう。
言ってみれば、この感覚が、二期にはなくなっている。逆に、二期は、あまりにも無邪気に

  • 人間肯定

になってしまっている。つまり、人間が動物を「管理」すること

  • そのもの

を無邪気なまでに「肯定」する。
しかし、なぜそのような「奇跡」のような世界観が、一期には、ありえたのだろう?
それは、今期の、たつき監督のアニメ「ケムリクサ」が示しているように、これは、

  • 人間がいなくなった世界に、とり残された動物たちが、逆説的に「ユートピア」を自生的に実現していた

といった、つまりは、

  • 人間が滅びた

ところから始まった物語である、ということが作品の最初から、明確にメッセージとしてあったがゆえに、そこに「残された」ものたちの、ある種の「開放感」が登場するフレンズたちに、その「自由」性を強いていたのであろう。
あと「ユートピア」ってことでは、

  • フレンズ

の定義が、一期から二期で、曖昧になってしまっているのが残念だ。
二期を象徴して、評判の悪い回が、第9話の、イエイヌの話であったわけだが、ここで、主人公でヒトのキュルルは最終的に、イエイヌと遊具でさんざん遊んだ後、まるで、ほっぽりだすかのように、イエイヌをそこに置きっぱなしにして、次の旅先に向かってしまう。いや。フレンズなんだから、「のけもの」にしては、まずいんじゃないんですかね、とは誰が見ていても思っただろう。
なんで、こんな後味の悪い感じになってしまったのかと考えてみれば、ようするに、

  • フレンズ

ということは、それぞれが独立自尊の、勝手に生きられる「強さ」が前提にあったわけで、イエイヌの場合に、そこの解釈が定まってないんですね...。

後記:
私のこのブログでよく取り上げられる「ネタ」的に対応して書かせてもらうと、一期のフレンズは

  • 柄谷行人の言う「遊動民」。柳田国男の「山人」。非定住民の社会にあった「解放性」の倫理

を示していて、二期のフレンズは

  • 東浩紀の言う「オタク」「動物」といった管理社会で管理される人間の「大人」「人間肯定」

といった対応関係になっていて、まあ、二期の監督さんの「倫理」は、せいぜい、こういった現代の人間の「絶対肯定」が、あまりにも前提となった、まあ、「去勢」された後の人間、管理される人間の家畜としての「道徳」といったレベルの作品を作ることで、視聴者を逆に「教育」しているつもりだったんだろうね...。