ぼざろと「英語」

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく」が「人気」と聞くと少し変な気持ちになる。というのは、そもそも、アニメとは

  • 日本語

のもの、だと思っているからだ。もちろんそれは、海外にアニメがないということを言いたいわけじゃない。アニメの発祥は、ディズニーかなんかだろう。当たり前だが、手塚治虫もディズニーで学んだ。
そうじゃなくて、これは日本のアニメなんだから、なんで、それを世界中の人が見ているの、という疑問なわけだ。明らかに、こういったアニメは、

  • 日本の「文脈」

において作られている。日本語で声優がセリフをつけている、日本人向けのものだ。
しかし、考えてみると、たとえそういったものだったとしても、アマプラなどでは、海外の人が見れるようになっているわけで、じゃあ、そういう人たちはどうやって見ているんだろうということになるけど、それが

  • 字幕

だ。ということは、どういうことか? この英語の字幕は、「公式」が作っている、ということを意味する。つまり、日本のテレビ局で放送されるのと、ほとんど同じタイミングで、アマプラなどのサブスクでも動画配信される段階で、「公式」は英語の字幕を用意している、ということになる。
このことは考えてみると、驚くべきことだ。
いや。海外の海賊サイトで、日本のアニメが、ほとんどリアルタイムで違法にアップロードされていることは知っている。そして、そういったものには、当然のように、その国の言葉の字幕が付いている。まあ、おそらく「適当」に翻訳しているんだろうな、と思っているわけだが、いずれにしろその

  • 公式

が、これだけ早く用意されているということが感心なわけだ。
なぜ、そう思うのかというと、そもそも「翻訳」という行為が、私にはよく分からないからだ。明らかに、例えば、アニメ「ぼっち・ざ・ろっく」を見るとなると、

  • コミュ障
  • 陰キャ
  • (日本的な)いじめ

などの概念を分かっていないと、これが何をやっているのか分からないんじゃないか、と思うわけね。これが、なにをやっているのか、なぜこれが、革命的なのか、とか。
実は、こういった話って、多いんだと思っているわけ。つまり、日本ではさまざまに「自明」に扱われていることが、海外では、そもそも「それ」を指示する

  • 概念

すらない、ということが多くあるんじゃないか、と。じゃあ、どうするのか? まあ、深く考えてもしょうがない、っていうことだよね。翻訳は「不可能性」において成り立つ。つまり、

  • 間違っている

ということは「たいしたことじゃない」ということを意味する。
例えば、以下の方の動画が興味深い。

m.youtube.com

この方のこの動画は、ある英語スピーカーが、英語字幕のアニメ「ぼざろ」の同時試聴をしている動画を、

  • そこで流れる英語字幕
  • その同時試聴をしている人が話している英語

の両方に対して、そこで使われる英語のフレーズの解説をしてくれている、という意味で、かなり親切な配信になっている。
日本人にとって英語というのがどういったものであるのかは、おそらく、人によって違うだろう。まあ、大企業に務めている人なんかは、必然的に英会話に通って、海外旅行を毎年のようにやって、英語ぺらぺらな人も多いのだろう。
しかし、多くの人は、義務教育段階の英語で止まっていて、当然会話なんて不可能。
私の場合は大学が理学部数学科という変わった経歴だったこともあって、大学時代はかなりの論文を英語で読んでいたこともあって、数学のような決まった形式の英語は当たり前のように読んでいたけど、文学のような詩的な表現はさっぱり、という感じだろうか。
さらに、そもそも会話なんて、学校時代も習っていないロートロなわけで、まったく、からっきし、というわけだ。
そんな私も、最近気付いたことがあって、それが、ユーチューブの「自動字幕機能」だ。これを使うと、英語の動画でも、英語の字幕をAIが勝手につけてくれる。
この字幕の「実力」をどう考えたらいいのかだけど、ある意味で、日本人の英語力をよく「補完」してくれている関係になっているんじゃないか、と思ったりする。まず、日本人が苦手なのが

  • 早口の聞き取り

だ。対して、AIが苦手なのが、「専門用語」なんだと思う。つまり、文脈からは自明なんだけど、ある専門用語が、「別の言葉にも聞こえなくもない」というときに、どっちにするのかを、AIはよく間違う。しかし、日本人は英語の文章を読むのは得意だから、

  • AIが何と何を間違えたのか

を「推測」するのは得意なんじゃないか、と思うわけである。実際に、「あー、あれのことね」と、すぐに気付くことがよくある。
あと、上記の解説動画がいいのが「英語のスラング」を取り上げてくれていることだ。こういったスラングは、そもそも、ネイティブじゃない日本人には、なかなか使えないものが多い。というのは、いろいろと「誤解」されやすい文脈もあって、簡単に使えないのだ。しかし、自分が使わないからといって、相手も使わないわけじゃない。つまり、聞きとりはできないとならないw
しかし、この「自動字幕AI」は革命的だったように思う。というのは、私自身が、こういった海外の人の「試聴動画」をよく見るようになったからだ。
例えば、ぼざろにしても、そもそも主人公は女性なんだから、女性が見て、どういった反応をしているのかは興味深いわけである。

m.youtube.com

こちらの動画を見て興味深いのは、最初に出てくるフレーズ「陰キャ」の翻訳である

  • introvert ... 内向的な、根暗な

ですね。おそらく、この方は、この言葉がなんなにか分からなかったんじゃないか、と思うんだよね。それに対して、少し後で、以下のように、言い直されている。

  • socially anxious introverts

ここで、

  • socially anxious ... 社交的に、心配な、気がかりで

ということだから、おそらく彼女は、「introvert」とは、「socially anxious」と同じ意味と考えていい、と理解したんだろう。そういったニュアンスのことを、つぶやいている。
socially anxiousは、一般的な表現というか、直訳しても、意味は分かるくらいのものだが、introvertはそんなにありふれた表現じゃないんだろう。まあ、言っている文脈がそんな感じだからね。そこから、

  • 専門用語

の意味を「推測」するのは、英語も日本語も同じわけだw
いずれにしろ、ぼざろの表現が、こんな形で英語で翻訳されている、というのを知るだけでも、陰キャの人には、自分を英語で「すら」、表現する手段を、こうやって手に入る、という意味では、興味深いんじゃないかな...。

追記:
もちろん、ツイッターなどで、自動翻訳リンクで、英語や他の言語でつぶやかれえたツイートが翻訳して見れるようになったのは、ほんと便利だ。あれ。思うんだけど、リンクを押さなくても、勝手に自動翻訳すればいいのにね。

ブルーハーツの青空

この話は以前にも書いた記憶があるけど、THE BLUE HEARTSという、昔の日本のロックバンドの曲に「青空」というのがある。
この曲は、ユーチューブで見ているとよく、黒人の方がとりあげている。というのは、いろいろと、そういった方々に刺さる詩があるから、と言っていいんだと思う。
それは、歌詞を見てもらえば明らかだと思うけれど、例えば、詩の前半で、ブラウン管でインディアンが騎兵隊に殺されるシーンの話が語られ、中盤で「生まれた所」「皮膚や目の色」によって、人を区別することの理不尽さが歌われているわけで、これが、

  • Black Lives Matter

を経た、黒人の方々に刺さらないはずがないわけだ。特に、BLMは、ミュージシャンのような文化人にとってもムーブメントとなっていたわけで、改めて、この曲が興味深く思われることは分かるような気がする。
ただ、この話には、もう一つ、言っておかなければならないことがある。
それは、この曲が発表されて、いろいろなところで披露されていったときに、ブルーハーツのボーカルが行ったパフォーマンスの話だ。

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まあ、著作権の話もあるから、この動画でもそこまで分かりやすく見えるように演奏を見せていないけど、それでも見れば分かるだろう。当時、彼はこういったパフォーマンスをしていた。じゃあ、なぜそういったパフォーマンスをしていたのかだけど、そこについては、いろいろな考えがあったんだと思う。それは、彼らの歌詞を見ても分からなくはない。
例えば、ブルーハーツのヒットした曲に「情熱の薔薇」というのがある。ここでは、薔薇の美しさと「どぶ鼠」が対比されている。一見すると、後者は前者に比べて「美醜の面」において、劣る存在と扱われる。しかし、それは変なんじゃないか、と言うわけである。なぜ、「どぶ鼠」の美しさに気付かないんだ、と。つまり、「どぶ鼠」の心の美しさを理解しない人々の

  • 醜さ

を揶揄しているわけだ。
黒人のミュージシャンの方々にとって、自分たちのルーツでもある、Black Lives Matterは重要だろう。しかし、ブルーハーツの曲は、そこにとどまらない範囲の批評をもっている。
早い話、上記の動画でのブルーハーツのボーカルのパフォーマンスは、身体障害者の真似なわけだ。そこには、おそらく、水俣病患者すら意識しているだろう。思い出してみると、日本の義務教育制度において、そういった人たちは、別クラスに集められて、別の教育を受けてた。なぜ彼らが別扱いされるのかは、そこまで自明ではない。同じなんじゃないか? アメリカの過去の歴史において、白人たちが、黒人たちを、「隔離」して、別扱いしてきたことと。
ブルーハーツの曲では、初期の作品の幾つかで、自分たち「不良」が、優等生で、進学校に進む連中と別扱いをされて、社会から

  • 馬鹿にされる

ことを怒りをもって告発している曲がある。おそらく、こういった延長に、彼らにとって多くの「差別」などの問題があるわけだ。みんな繋がっている。なんらかの、社会的な「差別」を正当化する、エリートたちのドス黒い悪の臭いを、ずっと告発し続けた延長に、上記の「青空」もあったはずなのだ。
そして、こういった延長で、この前に紹介させてもらった、柄谷行人の『力と交換様式』における

  • 交換様式D

を考えることもできるだろう。社会的な問題を考えると言っているエリートたちは、往々にして、自らのエリートゆえの「特権」を享受して、その利益を

  • 当然

のように考え、それをもたない人たちへの差別を正当化している。しかし、それは「自明」なのだろうか? 彼らの醜いその姿は、どんなに立派な服を着ていたって隠せない。そのことと対照的に、「情熱の薔薇」における「ドブ鼠」の

  • 美しさ

が、まさに、交換様式Dとして、私たちに現れる...。