東浩紀の『存在論的、郵便的』をこの前から読んでいたわけであるが、一つ、どうしても違和感をもたざるをえないのがある。それは、 なぜこの本には「自己言及のパラドックス」の話がでてこないのだろう? ということであった。 特にその違和感を強くするのが…
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