呉善花『生活者の日本統治時代』

まず、著者自身の親の体験から、話を始める。

鹿児島で箸製造工場をやっていた叔父たち一家(五人)と父たち一家(三人)は、三人家族の日本人の家に間借りをしていた。父母や叔父たちがいうには、その家族も近所の人たちもたいへん親切にしてくれたという。何かと言っては果物などをくれたりしたし、畑をただで貸してくれて野菜を自給することもできた。
母はタクアンをはじめとする日本の漬け物をよく漬けていたが、家主の奥さんに教えてもらったのだと言っていた。そして母は、漬けるたびにその奥さんのことを懐かしそうに語っていた。
戦争になり、やがて空襲がはじまると、日本人は防空壕を掘った。その家の主人は叔父や父たち家族も員数に入れて大きな防空壕を掘り、防空頭巾も作ってくれた。そして飛行機が来るといつも子供たちから先にみんなを防空壕に入れて、自分は最後に入ったという。
日本が負けて、叔父たち一家と父たち一家は済州島へ帰ることにしたのだが、その日本人家族は涙を流して別れを惜しんでくれた。自分たちもお世話になったことを感謝し、泣くだけ泣いて別れてきた。

著者は、そういった親の話を聞くたびに、自分が学校で受けてきた、反日教育との、差異に悩む。
そういった著者の関心の延長から、始められたインタビュー集である。
ちょっと、話を横道にそらせて、もうしわけないのですが、昔、柄谷さんが、中野重治についてふれたときの発言を検討させてください。

僕は戦後しか知りませんから、かつて戦前に関してある通念をもっていました。それは、例えば転向はもっぱら国家権力の強制によってなされたというものです。あるいは、戦前には言論の自由がなくて何もできなかったというようなものです。しかし、もちろん中野重治はそのときは知らなかっただろうけれども、ソ連では、獄中非転向なんてあり得ないわけです。たとえば、検事調書をめぐって戦略的に闘争することなんてことはあり得ない。ナチズムにおいてもあり得ない。ところが、戦前の日本帝国は、少なくとも帝国憲法による法治国家の格好をとり続けた。それなしに、あのような「転向文学」はあり得ないと思うんです。
たとえば、『村の家』を昔、何遍読んでもよくわからなかったことがありましたね。一つは、政治活動を放棄すると言うことが転向だということです。もう一つは、『村の家』では、主人公が共産党員であることを認めることが転向を意味するらしいことです。これは奇妙な話です。しかし、よくわからなかったのは、戦前は治安維持法などで権力は何でもできたという通念をもっていたからです。例えば小林多喜二は殺されたけれども、警察は後で非常に反省したらしいですね。ああいうふうにやってはいけない、と。それ以降は、拷問は逮捕したあと一日ぐらいになった。拷問はアジトを自白させるためであって、それ以後にやっても意味がないからです。
しかし、弾圧が日本ではなぜこういう形をとったのか。一つは、それは彼らが共産主義者を「転向」させようとしたからです。昭和初期に支配層が一番憂えたことは、例えば東大法学部から新人会が始まっていますが、これは日本の官僚の後継者の一番中枢部分ですね。だから、このような連中をたんに弾圧してはいけない、彼らを支配層に取り返さないといけない。したがって、温情的にやって、彼らを改心させなければいけない。それはドイツとかほかの国で起こった弾圧とは決定的に意味が違うと思うんです。転向は誘惑なのです。
もう一つは、先ほどいったように、戦前の政治体制は法治国家の体裁を維持したことです。しかし、左翼は、ファシストもそうですが、こういう法制度はブルジョア的な幻想にすぎないと考える。ドイツやソ連では、そのような連中が権力を握っているから、当然、めんどうな裁判手続きなどやらない。今の新左翼でもそうです。ついこの前も、どこかの家を焼いたあと、我々がやったという声明を出しています。彼らはブルジョア法など幾ら破ってもいいと考えている。しかし、そういう彼らが逮捕されないのは、そのブルジョア的法律に守られているからですね。
中野重治の「転向文学」は、この二つの要素によって可能であったとともに、まさにこの二つの要素と格闘したのだと思います。たとえば、『鈴木・都山・八十島』などでは、法律のなかでぎりぎりの、中野的表現で言えば、「ねちねちした」闘争をしている。どんなにひどい法律であろうと、それは無法とは違うからです。戦後、大西巨人が『神聖喜劇』を書きました。ここでは主人公は法律的な闘争をやるわけです。大西さんは、軍隊は「真空地帯」だという「俗情」を批判して、この長い小説で自らそれを示したわけですが、僕は、これは彼が中野重治から学んだことではないかと思います。
柄谷行人中野重治のエチカ」雑誌『群像』1994年1月号、講談社

日本の明治以降の政治があれだけ続いたことは、それはだてではない、そういう部分はあった、ということでしょう。(所々、逸脱はあったが)それなりに法治国家の体裁をとり、全体をみれば、そのほとんどの期間は、比較的平穏でありかつ、大正デモクラシーのようなものも存在できた時代であった。それは当然、ある部分は、多くの人に、受け入れられて来ていた、ということだ。
ここはデリケートな所ですが、国内において、本当に、社会的な圧政と言える段階に至るのは、「治安維持法」ができた頃から、でしょう。
では、そもそも、朝鮮半島にいた日本人とは、どんな人たちであったのか。
日本人は、ソウルのような都市部を中心に、1割くらい、存在した。田舎にはあまりいなかった。
また、役人の割合もかなり多かった。彼らは、「外地手当て」をもらっていた関係もあって、(日本の役人と比べても)かなり裕福だった。
また、都市部においては、彼らの回りにいる、彼らと一緒に学校に通った朝鮮人は、ヤンバンなどの、相当な金持ちたちであって、とても庶民とは違った。
逆に言えば、このことは、彼らは、親のしつけも厳しく、金銭的は多少の余裕のある、高貴な生き方を、自らに課すことのできた、(世間的には)有徳の人たちだった、ということだ。
彼らは、生まれたときにはすでに、台湾、朝鮮は、日本の領土となっている地図ばかり見てきた。優等生として、どうふるまうかは、自明だった。
そういった延長から、どう考えても、当時の日本の支配を、なにかの問題としては、実感として、その感情が、わいてこない。
しかし、一部には、戦後、彼らに、もうしわけなかった、という感情をもたざるをえなかった人たちもいる。それは、限りなく、国に近かった、役人たちだ。彼らは、逆に、分かっていた。無自覚でナイーブではいられない、そういう自分の立場を、どうしても意識せずにはいられなかった。

終戦の日から一週間経って、荷物をとりに学校へ行きましたら、朝鮮人の先生たちは喜んで職員室のなかへ入れてくれ、みんな涙を流しながら学校を出て行く私を見送ってくれました。そのときに私が教えていた四年生の子供たちがやって来て「先生の家に遊びに行きたい」と言ってくれました。それで子供たちは私にこう言うんです。
「金先生からハングルを習っています。ハングルってねとても面白いですよ。こうやって丸と線を組み合わせれば文字になるんです。ハングルは世界一の文字なんだって。先生も覚えればどうですか。私たちが教えてあげますよ」
そう話す子供たちの明るさは、それまで見たことのないものでした。子供たちがどれだけハングルを習いたかったのかが切実に感じられました。
当然とばかりに日本式の教育をしてきて、それがどれだけ悪いことだったかを、それまで私はまったく気づいていませんでした。子供たちの目はとても輝いていて、はじめて自分がしてきた教育を思い返して深く反省しました。
終戦になってひと月ほど家にいましたが、子供たちが頻繁に遊びに来てくれました。新しい学校でどんなことを勉強していうのか、いろいろ話をしてくれました。その無邪気に明るい子供たちの顔を見ながら、「朝鮮の人たちがほんとうに望んでいたのは独立だったんだ」と今さらのように感じながら、子供たちの楽しげな話をずっと聞いていました。

よく言われるように、日本の支配層には、幾つかの選択肢があった。なにも、完全植民地化、日本同一化、こういった方向しかないわけではなかった。最初の頃には、もっと、朝鮮人自身による自治を認める、を模索していたと言ってもいいのだろう。では、逆に、なぜその方向をとらなかったのか。
こういったことを、「国民は政治に翻弄された」と一言で言うのは易しい。
彼ら元在朝日本人は、朝鮮の今の現状を、まるで当事者であるかのように、自分のことのように語る。どうしても、朝鮮を自分たちと距離を置いて見れない。
彼らは、子供時代を、朝鮮半島で過す。朝鮮こそ、彼らの故郷であり、感受性を育んだ場所、まさに青春だったのだ。
例えば、当時の在朝日本人たちが、戦後、むしろ、ショックを受けたのは、その後の、北朝鮮が、徹底して、日本に友好的であった朝鮮人を、粛清した、その事実なのだ。
ここには、何重にもねじれた感覚がある。
いろいろな視点があるだろうが、その中の一つとして、当時の日本も朝鮮も、ものすごい「格差社会」だった(というより、歴史上、ずっとそうだった)、ということを考えさせずにはいない。そういった視点は、ありえないだろうか。
北一輝は、社会主義的な天皇中心ファシズムを目指したが、ある意味、戦後、日本の官僚たちは、アメリカ占領軍を利用して、日本に「社会主義」を実現した。日本の官僚のほとんどは、北一輝イカれた連中ばかりだったわけだが、農地改革をアメリカ占領軍を利用して実行して、ある意味、戦後にこそ、北一輝の思想は実現された、と言える(これについては、前に書きましたね)。
このことは、逆の道をたどり、戦争中から、なにも変わらず今にまで至った、アメリカの、一部名家の富裕層の、もはや天上人を思わせるような、莫大な資産、その「超」格差社会を考えてみるといい。
あのまま、日本が、もし行ったとして、それは、日本人にとって、幸せだったのだろうか。
歴史を勉強している人は、どうしようもなく意識せざるをえない。
日本の政治には、むしろ、細部にこそ、致命的な弱点があり、楽天的に始まった初期には、それなりに勢いで流れていたものが、安定期を過ぎ、ウェーバーの言葉「権力は腐敗する」とあるように、平和が続いていく中で、少しずつ、腐敗は広がり、その細部の弱点が極大化し、その日本の無謀な暴走は、敗戦という破滅に至った、と。
こういうことを、「しょうがなかった」と語ることは簡単である。
それは、多くの人の実感なのだろうが、しかし、そう言ってしまうと、結局、「国の命令だから、しょうがなかった」となる。これは、中国の言う、A級戦犯論であろう。
エリートたちにしたら、その時の、国際情勢から、ぎりぎりの選択を「国民にとって良かれ」と思ってやっていた、と当然、そういう言い訳に終始するだろう。「おれたちは、民主的なプロセスを踏んでやっていたのに、今さら、掌を返すのは、どうなのか」というわけだ。
しかし、ナチスだって、民主主義的な多数決によって選ばれたわけだし、このことは、現在の代表民主制が、民主主義を実現しないための、官僚政治であることの証明にしかならない。官僚たちは、国民になんとかして、自分たちのやっていることが、民主主義の結果によって実現したように見えるように、さまざまな虚飾をおこなう、ということだ。
もちろん、国家とは、暴力組織として、常に、国民を強制する形で、民主的なプロセスを収奪し、利害を実現していく組織だとして、じゃあ、これに変われる、政治プロセスが提示されないなら、何を言っても無駄という言い方は、やはり、強い力をもっているのだろう。
他国の人たちが「すべてA級戦犯が悪かったんだから、そう自分を責めることはないよ」と考えてくれれば、庶民には救われる部分もあるのかもしれない。しかし、私たち自身が歴史を振り返るときは、そう単純には整理できない面は、ある。
最後は、「結局、過去の人を全否定なんてできないよな」というわけで、話は一歩も前進することなく、忘却の彼方になる日を、ただひたすら待ちわびることに希望をみいだす、というような、怠惰な結論に終わる、というわけだ。
これはなんなんだろうか。カントの言うように、人間の理性には、そもそも、限界があって、その壁を突き破れないでいる、ということなのだろうか。
つまり、なぜ、多くの国民は、「飢えて死ぬ」ことを選んでも、非転向を貫かなかったのか。貫くことができなかったのか。その国民の心性とは、どういった機先によるものだったのか。
私たちの、精神には、なにか根本的に欠落している、どうしようもなく、ダメな部分が、必須の与件として、存在している、そんなようにすら思えてくる。
こういったいろいろなことを考えてくると、どうしても、ヘーゲル的な認識とでもいいましょうか、ある種の、世界精神の自己運動のような、見方をしたくなる。
日本は、アメリカに徹底的に破壊された。しかし、なぜか、戦後、日本はその支配を、まったく反対することなく受け入れていく。
すると、その後、占領軍の指導もあり、農地改革なども行われて、さらに、民主的な政治が実現されていき、国民の生活レベルも向上した。
言ってみれば、アメリカは、日本人自身が行うことのできなかった、日本に残っていた、ブルジョア革命の「最後の一歩」を完成してくれたのだ。
不思議な話だが、だとするなら、この歴史の皮肉をどう受け止めたらいいのか。
その後の歴史を考えるときに、むしろ、気になるのは、さまざまなテクノロジーの発達と、この一連の出来事が一緒にあった、ことなんですね。戦後、三種の神器と言われて、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、(でしたっけ、)こういったものが、どこの家庭にも普及した。これによって、各家庭は、どれほどの、革命的な変容が訪れたのでしょうか。
もちろん、医療の進歩、農業技術の発展、エネルギー問題の克服、一次産品の大量輸入、こういったさまざまなテクノロジー、工業製品の社会インフラの整備、改善、発展の嵐が、なにか、当然のように、多くの民主的な政治の進歩、人権意識の向上を、ひきつれてきた。
どうしても、こういった、さまざまなテクノロジーの進歩と、人間の尊厳、人権が尊重される社会の構築が、(マルクス的な問題意識の中で、)別々のこととして並行して起きた、とはとても思えない。
このようなテクノロジーの進歩、テクノロジーの大衆化は、そういった「格差社会」を補填した部分があったと思う。昔なら、富裕層が、お手伝い(丁稚奉公)にやらせていた、さまざまな作業が、こうやって、自動化される。
アリストテレスギリシアからの、奴隷の存在によって自由を担保した市民は、現代において、そのかなりの部分を、この近代テクノロジーによって担保する(もちろん、だからといって、格差社会が解消してきているかといえば、逆であり、どんどん広がってきていることは言うまでもない)。

ETV特集「里山で子どもたちが輝く」

千葉、木更津市の、里山で、土曜学校、が行われているという。
こうやって、都会の子供たちが、自然の中で、山の中で、暮している姿は、今、都会で暮している、田舎の出身の若者たちに、希望を与えないだろうか。
別に、子育てのためだからといって、田舎に戻る必要はないのだ(それも、いいんでしょうがね)。十分、近場に、そういった環境は残っている(ただ、もちろん、都会にこういった場所は多くない)。
また、こうやって、都会の子供たちが、協力し合って作業している姿に、むしろ、勇気付けられるのは、親たちの方だろう。
親とは、無力ではない。親には、やることがないのでもない。親は、自分の考える子育てを、子供に示していいのだ(最後に選ぶのは子供だとしても、それは経緯があるのであって、最初は、親が示していい)。なぜなら、お前の子供なのだから。なぜなら、自分が子供時代を通って、育ってきたのだから。
それが、家族であり、イエの伝承であろう。