ラカンは本質的なのか?

正直、ラカンはまともに読んでもいないし、私がそれについてどうこう言いたい気持ちもないわけだが、しかし、他方において、いわゆる

界隈では、ラカンを理解せずんば思想にあらず、といったような、まさに「秘教」的な

  • 文化

のような「やりとり」が繰り返されているのを眺めているにおいて、アマノジャクではないけれど、いい加減、ラカンがどうのこうのというような「文化」そのものをやめませんか、と言いたくもなるわけで、しかし、そういった感覚を吐露するだけで、怒髪天を突いて怒(どな)りちらしてくる連中っていうのが、いわゆるこの「現代思想」界隈にはいらっしゃるわけで(しかも、大真面目に「正義」をかさに着て)、なんとも困った話なわけである。
私が言いたいのは、別に、ラカンを一方において「評価」をされる方々がいらっしゃることに対して、そういった人たちが、そういったグループの中で、なんらかの価値を探されることに意味がないと言いたいのではなく(それこそ「ラカン村」の中でおおいに議論をされればいいし、きっとその中でパブリックにも有益ななにかが見出されることをまったく否定する気まではないわけで)、それは、

  • そうでない人たち

には関係ない、でいいんじゃないですか、と言いたいだけなのだ。少なくとも、そういった「場所」くらいは確保させてくれないかな、という、ささやかな要望を述べているだけで、そんなに大仰なことを求めているわけではないことくらいは理解してくれるんじゃないのか、とは思うわけである。
このことと関連するのかもしれないが、ネットでこういった話題について検索をすると、まず出てくるのが、ラカンと「ソーカル事件」というか、ソーカルの「知の欺瞞」という本との関連で、つまりは、ポストモダンへの「サイエンス・ウォーズ」との関連で、ラカン「問題」という形で、それを、

に敷衍して「攻撃」していこう、といった主張が見受けられる。このことについては、私もつい最近、千葉雅也先生の

  • 日本の文脈

という形での整理に対して、「一定の懐疑」のような形で言及をさせてもらったわけであるが(千葉雅也「ラディカルな有限性」 - martingale & Brownian motion)、確かに、浅田彰の『構造と力』と、東浩紀の『存在論的、郵便的』の二つの著作は、フルスロットルで、

で書かれているわけなのだけれど、問題は柄谷行人にあるわけであろう。ネットの議論を見ると、

  • おそらく、柄谷はラカンに大きな影響を受けているはず

といった主張が多く(その推論は、おそらくは、ゲーデル不完全性定理に関係している)、柄谷の主張のかなりはラカンの影響なんじゃないのか、といった予測のような形になっているわけで、この繋がりで、上記の「サイエンス・ウォーズ」と柄谷を、より明確な形で繋げよう、といった構想があるのだと思われるのだけれども、その批判は少なくとも、浅田彰東浩紀には避けえないけれども、実際に柄谷が言ってきたこととの対応ということでは、一定の留保が必要なんじゃないのか、とは言いたくなるわけである(いや、彼らがこれまで、さまざまに「つるんで」きた事実を考えるなら、これらの区別に意味なんかあるはずがない、と言われるなら、返す言葉もないわけですがw)。
というのは、1989年の『シンポジウム』という鼎談集というのがあって(季刊思潮という雑誌の特集のようですが)、その中に、1988年の鼎談として、

というのがあるわけですね。そして、その中では、かなりあけすけにこのラカンの評価について、語っているわけです。

柄谷 たとえば、ある時期からのフランスの思想界というのは、ラカンが設定した問題批判のなかで動いていると言ってもよいと思います。精神分析に関係ない人も全部そのなかでやっているわけです。つまりフロイトというより、ラカンの言語が一人歩きしているわけです。これはある意味で奇妙な現象でして、別に精神分析の治療がなされれいるわけじゃないんですよ。それに対して否定的であろうと、とにかくラカンの言葉で動いているわけですね。
木村敏中井久夫市川浩柄谷行人「<分裂症>をめぐって」)

シンポジウム

シンポジウム

ようするに、フランス現代思想は、どの本を見ても、ラカンがなんだかんだと書いてある。なんでどの本にもラカンがどうのこうのと書いてあるのかということになるけれど、だれも分からない。とにかく、そうなっているからそうなんだ、と。そうなると、いわゆる、フランス現代思想

  • オタク

とはイコール、ラカン「オタク」ということになる。それでいいの?、ということなのだけれど。

柄谷 なるほど。中井さんね、ラカンは名前について言わないのに、ただ「父の名」というのを堕しますね。あれ、何なんですか。
中井 ぼくはラカンじゃないから何とも言えないけど、大体ラカンというのはよくわからんですよ。あれは本物か贋物かよくわからんので、誰か教えていただきたいんですが、たとえば無意識というのは言語的に構造化されえていると言うでしょう。どうなんですかね。
木村 「言語のように」というか。
中井 「ように」なんですか。
木村 コムを使っていますね。とにかく「として」、あるいは「ように」でしょうね。どう訳すかの問題で。
中井 「言語のように組織されている」と言うと、これ全然違うから。
木村 「言語として」と訳すか.....。
中井 うーん。ラカンさん、その辺、はなはだ不透明なんですよね。
木村 ラカンというのは非常に不透明ですよ。だからそれをラカニヤンの人達が、バイブルにするものだから(笑)。
中井 でもあれは、全員を破門して一人で死んでいくわけで。
柄谷 あれはフランス的現象ですよ、明らかに。なぜみんながラカンについて語るのかわからなくて、いろいろ聞いても、みんなが語るからとしか......。
木村 日本もそうですよ。
中井 ラカンは単に回しているだけじゃないかと。
市川 日本人はあんなもの信じてないと思うけど(笑)。
木村 いやいや、信じている人達が何人かいて......。
中井 ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語としてはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないかと思ったんですけどね。
木村敏中井久夫市川浩柄谷行人「<分裂症>をめぐって」)
シンポジウム

みんな、だれもかれもが「ラカン」について語っているんだけど、なぜラカンについて語るんですかと、だれに聞いても、「みんなが語っているから」としか返答がない。というか、市川浩さんなんか、しごくまっとうに、

  • 日本人はあんなもの信じてないと思うけど(笑)。

と言うわけだけれど、木村敏さんは深刻なおももちで、

  • いやいや、信じている人達が何人かいて......。

と言うわけで、って。これって、なんなんだろう? 木村敏といえば、非常に重要な日本の精神医学の方だと思っているんだけれど、これって、なにかの「党派性」とかそういう話だということなのだろうか?
ここで別に、ラカン派と自称している人が日本にどれくらいいるのかとか、そもそもラカン派といったような、医学部の「学派」みたいなものが、日本にあるのかとか、いったことを真面目に語りたいわけではないんだけれど、例えば、マスコミ的に有名な方としては、斎藤環さんなんて人がいるわけですし、

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

みたいな本があるんだけど、これってなんなんだろう、と思ったりするわけである。

中井 フロイトシュレーバー症例論にどれだけ、何を付け加えたのだろうか。不勉強かもしれませんが。
木村 そこ、問題なんですけど、ラカンは、少なくとも日本語に訳されているものを見るかぎり、まだ自分の分裂症の治療経験を語ったものはないですから、最初の話にやや関係するんだけれども、本当に分裂症の治療経験を語ったものについてでなきゃ、ぼくらはちょっとコメントしにくいというか......。
柄谷 フランスでは、結局、批評の問題としてラカンを読んでいると思うんです。そして、それはラカンフロイトについてそうしたからです。精神分析を問題としているのではなくて、フロイトのテキスト、つまり固有名がついているテキストをずっと相手にしているんですね。だから実際の治療・臨床と大して関係ないですよ。
中井 実際にフランスへ留学してきた人の話では、ラカンという人は、患者を見ていたのではなくて、要するに教育分析を受けに来ていた人達と話していたんだと。ある意味じゃ、それこそ自分のヴァリエーションみたいな、無数の鏡の中におったような感じなのではないかということで、相当極端なこと言っても、有害ではない。信奉者のまん中におるから。
木村敏中井久夫市川浩柄谷行人「<分裂症>をめぐって」)
シンポジウム

こうやって見ると、少なくとも、フランス・ローカルななにかを考えたい人にとっては、もしかしたら、ラカンについて取り組むということは、(文化的、歴史的な、構造として)不可避ななにかなのかもしれないけれど(それこそ「オタク」的に)、でもそれって、そうでない人にとっては、基本的には関係ないんじゃないのか? もっと言えば、少なくとも、精神医学との直接の関係のものとして、

  • 本質的に避けえない

とまで考える必要はないんじゃないのか? つまり、ここを「混乱」させるような議論は避けるべきなんじゃないのか、といった控えめな主張なんですけどね...。

数学基礎論とコンピュータ

アラン・ソーカルの「知の欺瞞」における、ゲーデル不完全性定理の、こういった現代思想系の思想家による「乱用」に対する批判を、まさに、日本の文脈として、柄谷行人に敷衍しようとするときに、私が一定の留保条件をつけたいと思うのは、別に柄谷の言っていたことが、滅茶苦茶じゃなかった、といったことが言いたいのではなくて、もう少し、ちゃんとした

  • 文脈

で評価をしないとフェアじゃないんじゃないのか、といった思いがあるからなわけである。
そして、その感覚をどうしても強調しておきたいと思うものに、前回にひき続いて、柄谷行人の『シンポジウム』(1989年)という鼎談集に収録されている

を、果してこうやって柄谷を批判する人たちは読んだのか、といった疑問があるからなのだ。

森 だいたい数学者人口からいけば基礎論というのはマイナーで、基礎論に関心を持つ人もマイナーでしょう。
倉田 ただ十九世紀にそれだけ深刻に考えた人は少数であったわけですね。
森 特に二十世紀の初めは評判になったけど、それはそれとして数学は体制としてどんどん進んじゃうわけで、基礎論自体は最近は集合の在り方の可能性のようなものを追及する専門の分野になってきていますね。
倉田 しかしそれは、ワーキング・マテマティック(working mathematics)といわれる現実の数学とはまるっきり無関係なところで発想しようというのが、集合論という基礎論の分野を培っているわけですね。
森 その分野だけがいくらか閉じ込められながら、それをやっている人達がいるんです。
倉田 ところが今世紀以来の基礎論の発達でいちばん目覚ましいのはその集合論であって、その他の分野であれほど目覚ましいものはないんですね。
(倉田令二朗・森毅浅田彰市川浩柄谷行人「<数学の思考>をめぐって」)

シンポジウム

シンポジウム

大事なポイントは、これが柄谷がゲーデル不完全性定理に言及した頃までの

  • 時代の雰囲気

なんですね。つまり、数学基礎論なんて、だれも知らなかったし、本当に大衆には関係なかった。じゃあ、その頃と今では何が変わってしまったのかというと、単刀直入に言ってしまえば、

  • コンピュータ

なわけです。
それは、現在ではまさに

となった「大学」を考えてみればいい。今では、どこの大学でも「情報学部」があり、別に情報学部に所属していなくても、大学の授業の選択科目で、情報処理系の選択科目を選べば、数学科の生徒かとか関係なく、普通に授業で、

をやるわけで、その雰囲気を最も現していると思われるものとして、前回の記事でも紹介させてもらった(自己言及の問題としての「不動点定理」 - martingale & Brownian motion)、京都大学の講義レジュメ

長谷川真人「自己言及の論理と計算」

がよく、その雰囲気を現している。
なぜそうなのかと言うと、ゲーデル不完全性定理のコアのアイデアである、不動点定理、つまり、対角線論法であり、自己言及問題というのは、コンピュータの

  • 停止問題

とまったく同じように適用される問題系なわけであって、ようするにこれって、

  • コンピュータの(ある意味、カント的な)「限界」

の問題に非常に深く関係しているわけでしょう。だから、当然、情報処理の授業でやるんですよ。こういった問題を介して、コンピュータの可能性と限界について、学生たちは、深く考察するんですね。

浅田 数学の世界では論理的に構築する時に自己言及を避けようとして、極端に言うとラッセルのタイプ理論になるわけですね。でもコンピュータの世界では、LISPなんかでいくらでも自己言及的なことがやれて、タイプ・フリーなドメインが出てくる。自己言及なんか恐くないということになっちゃうんですね。ローヴェルは、エピメニデスのうそつきパラドックスカントール対角線論法ラッセルのパラドックスゲーデル不完全性定理を、一種の不動点定理として、しかし否定だから不動点がないという形で統一的に理解した。しかし不動点が存在するケースも多々ある。バレラなんかが指摘したように、スコットが連続束の理論で構成しているリフレクシヴ・ドメインというのがそのひとつなんですね。こうして、数学的論理の世界における自己言及のパラドックスの対偶をなす、機械的操作の世界における自己作用・自己再生産の可能性が、論理的に基礎付けられたわけです。
(倉田令二朗・森毅浅田彰市川浩柄谷行人「<数学の思考>をめぐって」)
シンポジウム

柄谷 (中略)たとえば、チューリングは、ゲーデルの複雑な証明を、コンピュータの停止問題におきかえた。つまり、ゲーデル不完全性定理は、任意のコンピュータ・プログラミングがコンピュータを停止させるかどうかを機械的に見つける一般的方法は存在しないという命題と同値だということを示したわけです。
(倉田令二朗・森毅浅田彰市川浩柄谷行人「<数学の思考>をめぐって」)
シンポジウム

あのさ。よく考えてみてほしいんです。
まったく、時代は変わってしまったんですよ。
でも、そのことの萌芽は、すでに、上記の対談には濃厚に漂っていたわけですが。

倉田 さきほどのズレないしギャップの話にもどりますと基礎論屋とワーキング・マテテマティシャンというのは、基礎論というのは数学を外側から見るもので、ワーキング・マテマティシャンは内側からそれを見るという大きなギャップがあったわけですけれども、コンピュータ・サイエンスのおかげでそれがものすごく接近してきたんですね。みんな外から見ちゃうようになったんですね。まず基礎論屋工学関係の人のギャップがなくなった。ゲーデル・ナンバリングと言うとたいへん取っつきにくい長い名前だけれど、コードと言うとみんな分かるわけでしょう。数学屋もコンピュータにたいへん馴染んできて、ギャップがすごく埋まったんですね。
(倉田令二朗・森毅浅田彰市川浩柄谷行人「<数学の思考>をめぐって」)
シンポジウム

森 古典論理と直観論理は違うけれども似たところがあって、直観論理がいちばん古典論理と違うのは二重否定が元に戻らないことなんですね。つまり補集合というのが確定しない。直観論理は作っていきますから、それは一挙に否定できない。
倉田 排中律がないということだよね。
市川 それがなで直観論理なんですか。
森 いまの純直観主義者に言わせると直観主義の堕落と言いますが、クリプキとかハイティングなんですけど、象徴系としての時間のシステムがあり、その時間のシステム毎に集合がある。その集合が時間のシステムと共に動いていき、それをずっと繋いでいくようなものが点であるというモデルを作るわけですよね。それは順番に頭の中でものを作ってゆく論理になって、つまり直観主義とは構成主義なんですね。
(倉田令二朗・森毅浅田彰市川浩柄谷行人「<数学の思考>をめぐって」)
シンポジウム

今では、学校を卒業して、プログラマーやSEになる人なんて、星の数ほどいるでしょう。こういったエンジニアは、まったく、特殊な職業ではなくなった。だれもが、当たり前のように、日常的にプログラムを書くようになって、上記の鼎談の頃とはっきりと分かるようになってきたことは、上記で「直観論理」と書かれているけれど、こういった

によって、実際に構成できるということの「情報」的な意味を、プログラマーやSEなら、日常的に意識させられる

  • 時代

になった、ということで、そういった意味で、上記の対談はこの転換の「過渡期」のような雰囲気があるわけです。数学基礎論は、むしろ、逆に、

つまりは、コンピュータで何が「計算」できるのか、といった「範囲」において、深く意識させられるようになって、こういった

  • 方向

において

  • 大衆化

した、ということなんですね。
しかし、そのことをあまり多くの人は認識していないわけで、というのは、いわゆる「現代思想」系の人たちは、あいかわらず、ラカンがどうのとかやっている、おじいちゃんたちの世界になっているし、対する、コンピュータ系の人たちは、そもそも現代思想とかいう、時代遅れの海のものとも山のものとも分からないものに、コミットメントしようとすらしないわけで、まあ、ここには強烈な

  • 分断

があるんですね。
これだけ当たり前に、だれもがスマホをもつようになり、当たり前に、SNSでデータ通信をするようになり、あまりにも自明なまでに、コンピュータは

  • 大衆化

した。つまり、ここには強烈な「アマチュアリズム」の勝利があるんであって、そういった「時代」に今、自分があるということを前提として、当時の柄谷が、ゲーデル不完全性定理に言及したことを、今の私たちのこの

の視点から、彼を論難することはフェアじゃないんじゃないのか、と言いたいわけです...。