宮尾登美子『天璋院篤姫』

大河ドラマの原作だそうで、昭和58年の作品だそうだ。歴史小説は、時代資料との戦いであるが、徳川の関係者に、篤姫の遺言の話などを聞いて、それを手がかりに書いたという話をあとがきの対談で作者はしている。
読んでいて、はっきり思うのは、篤姫が、徳川を「家」だと、思っている、ということだ。政治組織と考えるより、一つのやたらと大きな「家」と考えるべきなのだ。
NHKの「この時歴史は動いた」では、江戸城無血開城を、篤姫西郷隆盛に送った手紙の影響を強調していたが、その部分はこの小説では、さらっと書いてあるくらいだ。鈴木由紀子『天璋院篤姫和宮

最後の大奥 天璋院篤姫と和宮 (幻冬舎新書)

最後の大奥 天璋院篤姫と和宮 (幻冬舎新書)

の方では、多少、詳しく書いてある。
そもそも、徳川幕府は、政治組織としては、まったく頼りない集団に思える(その代り、徹底した自治を認めているので、内政としては、逆に成功しているのだが)。それは、丸山眞男が、荻生徂徠を評価することで、徳川政治のあまりの非近代的な政治を強調したことからも言えるのだろう。
政治とは、しょせん、漸次的に進んでいくものでしかありえなく、下からのグットアイデアがすくい上げられてきて、そのまま上にとどまるような仕組みとしてないなら、決して成功しないでしょう。しかし、そういった点はあまりに弱い。
例えば、幕末において、日本は欧米との不均衡貿易によって、未曾有の損失を受けているという。しかし、そのことをまともに対策できるようなアイデアを汲み上げて、運用できるような集団をどれだけ形成できていて、その集団が活躍できるような体制にどれだけなっていたというのでしょう。
結果としては、安政の大獄によって、徳川そのものが全国的な求心力・正統性を失っていき、桜田門外の変長州藩の反逆、薩摩藩の裏切り、徳川慶喜の軽挙によって徳川が逆賊扱いされていく過程を経て(しかし、その底流に「攘夷」というほとんど無知そのものの全体的な方向があったわけですが、これについては水戸藩の責任が言われていますね)、江戸城無血開城となる。
もし江戸での市民をまきこむ徹底抗戦、江戸城内での、徳川一族への、虐殺が行われていたら、そう考えると、多少白虎隊など小さな紛争はあったがその程度じゃなく、日本はもっと、アメリカの南北戦争のような泥沼の内戦になっていたのかもしれない。
前にある本で、日本においては、中国における、孝の習俗や慣習を、最後まで理解できなかったのではないか、というのを紹介した。
日本において、性と名を分けるという習慣は明治以後になってやっとまともに制度化されたくらいで、それまで、性とは、天皇家から分家するときの、源氏とか平家くらいしかないわけですね。そこからも、かなりの程度、日本の人に、中国は理解できない面があると言うべきだと思うんですね。
また、身の回りにほとんど、中国人がいなかった。例えば、朝鮮であれば、陸続きですから、周りにいて、どういう生活をしていて、というのが、自然に分かる。でも、日本になると、商売での人の行き来はあって、そういった商業倫理は、発達したとはいえるけど、交流はそれくらいですね。また、書籍などで、情報としては、日本に流入するが、そういうものは、逆に、分りやすいところばかり純粋化されて、発達する。
そうやって考えてくるとき、日本における、倫理的なものの発達とはなんだったのだろうか。例えば、家とか、藩とか、国家というものが、私的所有とかかわり、貨幣経済の普及とかかわるものと思えるし、「イエ」制度が、商売での商人家業としての企業と、法人を介して似てくる。
丸山眞男は、戦後民主主義の代表のように言われますが、他方で、江戸時代の武士たちの、箴言の伝統に、大変、共感的なところがありますね。そういった彼の評価をどのように考えたらいいのだろうか。
例えば、ちょっとびっくりするのが、篤姫の余生で、子供たちは、イギリスに留学に行くんですね。日本は、欧米の慣習をその後、とり入れていくことになる。結婚制度にしても、女性が男性の性を名乗るのは、キリスト教社会の伝統ですね。それを受容する。今の天皇でも、イギリスに留学に行きますしね。だから、明治以降の歴史とは、欧米の習慣を受容し続けてきた歴史そのままなんですね。今の中国のエリートにしてもほとんどアメリカに留学していますね。
それが徹底して来たなれの果てが今だとすると、私たちとは、なにをやっているのか。どこへ向かうのか。

新装版 天璋院篤姫(上) (講談社文庫)

新装版 天璋院篤姫(上) (講談社文庫)

新装版 天璋院篤姫(下) (講談社文庫)

新装版 天璋院篤姫(下) (講談社文庫)