柄谷行人「丸山眞男とアソシエーショニズム」

丸山眞男の、政治的な面での、市民の性向の分析を、紹介している。X軸に、政治的権威に対する求心性、Y軸に、結社形成性、を置いて、第一象限は、民主化、第二象限は、自立化、第三象限は、私化、第四象限は、原子化、としている。そこで、成熟した社会においては、マイナスX軸側に集中している傾向があるとする。
第一象限、第二象限、第三象限は、まあ、分かりやすい。ただ、第四象限の、「原子化」は、なんだか分からない存在に思える。それについて、説明がある。

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである(「個人析出のさまざまなパターン」丸山眞男全集9、385ページ)。

ようするに、最近話題の、2ちゃんのネット右翼、都会の孤独な若者の、保守化をよく現しているというようなことを言っているんだと思うんだけど(ほんとは、このあたりをちょっと徹底して考えたいんだけど、ここはあまり主題でないので、機会があれば、別の機会にでも)。
議論の後半は、日本人の、第三象限、私化、の傾向の強さについての分析になる。丸山眞男や、久野収が強調したように、民主主義においては、デモ、直接行動が、必須不可欠でありながら、日本においては、市民のデモが、あまりにも少なく、起きない。また、それは、デモについてだけではない。

特に外国で目立つことだが、日本人はほとんど政治的意見や思想的な意見をもたない。ただ、話題がインテリアとかファッションのような「「家」の内部の生活をより豊富にし得ること」になると、異様なほどに洗練を示し、且つ雄弁になる。また、公共的な問題には無関心であるのに、ゴミ焼却場設置や食品汚染のように「「家」の内部」に侵入するような問題が生じると、突然激昂して、過激な反対運動を行う。

そして、それはなぜか、となる。
結論としては、その傾向は江戸時代から続いているもので、近代において急に起きたものではない、となる。たとえば、江戸幕府は、各藩を滅ぼすのではなく、参勤交代によって、弱めるという政策をとった(しかし、こういう政策をとれるのは、外国からの、侵略が起きない、と思っているからであるが)。また、江戸時代において、豊臣秀吉の頃までの、武士=農民という関係はなくなり、武士は官僚となる。それも、中国での官位によって土地財産を得る家産官僚でなく、近代的な機能的な国家官僚に近いという。教育制度からなにから、もう、明治の国家体制は、ほとんど用意されていた、というのだ。
西欧における、自治都市やキリスト教の伝統、中国の同郷団体の伝統、こういったものに対して、日本においては、すでに、江戸時代から、近代国家的な、一極集中的な社会機構が形成されてきていて、すべてが国家に回収されるような、フーコー的監視国家世界が、さわぐまでもなく完成していたのでしょう。
それが「フツー/シアワセ/共感」...。ほんと、自分が思っている、こういった感覚を現しているような小説ないかな。あったら、ほかのことなんてどうでもいいから、読んでみたいよ。

思想 2006年 08月号 [雑誌]

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