滝沢正之「霊魂論と現代哲学」

私は、日本の「自称哲学者」の、文筆家の中で、生理的に受け付けない人が、何人かいる。
竹田青嗣永井均中島義道池田晶子鷲田清一
結局、なんでそうまで、生理的に嫌悪を感じるのか、と思うのだが 、まあ、とにかく言わせてもらえば、彼らの書くものが、おもしろくないからでしょうね。そこはもう、根本的にダメでしょう(こうやって、一覧にしてみると、一つの特徴として、(子供向けの)哲学入門みたいなのを書く連中ですね)。
それで、上記の論文なのだが、ここで、少し、永井均の、独我論について、検討している。ここで、独我論が、はるか昔からあり、現代においては、科学的には相手にされていない、霊魂論と、パラレルだ、と指摘している。
永井均の、独我論については、まず、この情報量のあまりに少ない議論で、えんえんと何冊も本を書いているんですよね。まず、こういう情報量の少ないものが、「この世の中でもっとも価値があり、一番基本になる認識である」ということはないでしょう。まあ、もっと言ってしまえば、よくもここまで、バカの一つ覚えで、同じことを、繰り返してるかってことですよね。
カントは、この問題でも、かなり、股裂きではあるけど、挑発的な議論をしてますよね(もうしわけないけど、永井均の言ってることが、カントがすでに取り組み、彼なりにある程度、メドをつけた議論にしか思えないんですよね。なにが新しいって言うんでしょうか。なんか、自分が始めて気付いたみたいな、ナイーブな態度が、イタイっすね)。
もちろん、カントの同時代の、ヘーゲルフィヒテシェリングや、その後のマルクスなどのヘーゲル左派も、カントと戦ったんでしょうけど、もっとその後の、ウィトゲンシュタインや、最近の、「正義論」のロールズにしても、作家のドストエフスキーにしてもそうですね、正面からカントとやりあった結果という感じですな(カントの哲学の文章は、かなり意図的に、抽象的で、形式的ですね。まともな文章として読めないくらい。そういう抽象性、形式性というのは、やっぱり、永遠平和の話もあるけど、その後の世代に暴力的に影響を与えていきますね)。逆に、カント自身も、デカルト、ヒューム、それに、ルソー、そういったものと、戦ったわけだ。
だから、上記の論文のように、例えば、永井均は、カントの霊魂論と、徹底的に戦うことで、付加的に、自分の考えが、浮上してくるような形で、議論すれば、もう少し、さまざまな議論との「交通」となり、もう少し、緊張感のあるものになったのかもしれない。
ほとんど、そのへんによくいる、説教好きのオジイチャンの、子供の頃、自分は利口だったという、自称「子供の頃から天才」、の自慢でしょう。
そもそも、大学研究者でしかないのに、自称「哲学者(ぷっ)」でしょ。どんなに自分を「哲学者」と自称しようと、子供の作文でしょ。

カント哲学のアクチュアリティー―哲学の原点を求めて

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