斎藤貴男「インタビューを終えて」

東京の公立の和田中学の、民間の、校長の、藤原和博に、斎藤自身がインタビューした記事を受けて、書かれたエッセイ。
インタビューの方であるが、藤原は、そもそもの夜スペにいたる流れを丁寧に説明して、その歴史への理解を深めてもらった上で批評してもらいたいということ。普通に読む限りは、これらの彼のモチベーションは不明であるが、生徒を考えて、いろいろな施策をされている、典型的な聖職者タイプの校長である、というふうにインタビューからは読める。
さて、斎藤は、夜スペに批判的であるとエッセイで言う。しかし、インタビューでは、たんなる聞き役にしかなれなかった自分の勉強不足をくやんでいる。しかし、これは、文筆家のパフォーマンスである。くやむぐらいなら、こんなエッセイを書くな。ふざけるな。
藤原は明確に言っているが、通信簿の5の子供に対して、現在の学校は、平等に扱えていない、と、それこそが課題なんだ、と言っている。言ってみればこれが、最後に彼の言いたかったことなんでしょうね(教育者の最後の野望がエリート主義であることは一般にありがちなことです)。
他方、斎藤は、このエッセイで、公教育は、暴論ではあるけど、「悪平等」でいいんだ、と言っている。しかしなぜ、「悪」などという言葉を使うのだ。子供に向けて発っせられたメッセージとしてみればこれほど、失礼なものもないでしょう。
自分が読んで思ったことは、三つある。
一つは、教育として教えていることになっているものは、それほど、たいしたものなのか、ということだ。
教育制度は、大学という研究機関を頂点として、階層構造になっている。そう考えると、そもそも、教えているものは、大学の学部・学科が最低知っていてほしいと思っている知識を確認されるのであり、それ以上でもそれ以下でもない。だから、多くの子供は、大学に入ることで、ものすごい徒労感にとらわれる。実は、高校まで、あんなに必死になってやっていたことは、「まったく」意味のない所作だったのだ。ふりかえって考えてみてください。高校まで必死で何時間もかけて覚え、できるようになったこと、それなんですか。そんなことやる時間があったら、いろいろ本を読みましょうよ。その方がずっと、大学、社会人になっても、対等に語ったり、討論できるノウハウがありますよ。なぜこんなことになってしまうのか、なんですよね(東アジアの朱子学の伝統を言うことは易しいですけどね)。だから、こういう実感と、上の藤原の所作との違和感なんですよ。
次は、そもそも、教師が生徒に「教える」なんていうことは、傲慢なんじゃないか、ということだ。
だって、「何を」教えるのだ。どうやってそれを選ぶのだ。どだい、無理線でしょう。ものすごい信念が必要ですよ。
最後は、やはり、教師は聖職者なのか、ということだ。
昔からある議論であるが。藤原校長の努力にしても、現場はそういった聖職者的な態度が強いられるような雰囲気ということなのでしょうけど、なぜなのか。モチベーションや動機がへんでしょう。結局、子供をかわいいと思うんでしょうね。また、そういう関係をへないと、信頼関係もつくれない。でもそれは、一種の偏愛ですね。教師自身がそうやって深くのめりこんでいくとして、それは、でも、その教師の視点ですよね。謙虚になることしかできないですわな。
だから、もし、なんらかの結論を立てたいとします。そのとき、一つだけはっきりしていることは、上から変えない限りだめだということだ。大学という機関、もっと言って、社会人になってからの教育、研究、独学。こういったものを、どう考えるのか。そういうものがクリアになれば、下は考えなくても、自然に落ち着くとこに行くでしょ。
インタビューの最後の方に、藤原が今年度で辞める、というようなことが書かれてある。

論座 2008年 05月号 [雑誌]

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