坂口安吾「続堕落論」

昭和21年、安吾は、堕落論というエッセイの後、半年後に、また同じ題名で発表する。
前の堕落論を受けて、さらに、「カラクリ」の深い分析に向う。
最初に書かれていることは、戦中に農民精神を礼賛する風潮があったことを受けての、その批判・分析から始まる。

大化改新以来、農村精神とは脱税を案出する不撓不屈の精神で、浮浪人となって脱税し、戸籍をごまかして脱税し、そして彼等農民達の小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が実は日本経済の結び目であり、それによって荘園が起り、荘園が栄え、荘園が衰え、貴族が亡びて武士が興った。農民達の税との戦い、その不撓不屈の脱税行為によって日本の政治が変動し、日本の歴史が移り変っている。人を見たら泥棒と思えというのが王朝の農村精神であり、事実群盗横行し、地頭はころんだときでも何かを掴んで起き上るという達人であるから、他への不信、排他精神というものは農村の塊であった。彼等は常に受身である。自分の方からこうしたいとは言わず、又、言い得ない。その代り押しつけられた事柄を彼等独特のずるさによって処理しておるので、そしてその受身のずるさが、孜々として、日本の歴史を動かしてきたのであった。
日本の農村は今日に於ても尚奈良朝の農村である。今日諸方の農村に於ける相似た民事裁判の例、境界のウネを五寸三寸ずつ動かして隣人を裏切り、証文なしで田を借りて返さず親友を裏切る。彼等は親友隣人を執拗に裏切りつづけているではないか。損得という利害の打算が生活の根底で、より高い精神への渇望、自我の内省と他の発見は農村の精神に見出すことができない。他の発見のないところに真実の文化が有りうべき筈はない。自我の省察のないところに文化の有りうべき筈はない。

一般に、農民の日々の大変な作業に耐えて、作物を作り育てる、彼等の精神こそ、見習うべきものだ、となるのだが、そんなものじゃなかっただろ、と、真実を見ろ、と言うわけだ。
次に安吾は、彼の言う、堕落について、深く説明していく。

堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。

道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず、地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。

キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。

結局、安吾にとっての、堕落とは、外道鬼畜の生活の推奨では、もちろんなく、むしろ、「カラクリ」、制度にほんろうされ、主体をもたず、周りに流され、考えることを放棄する、そういった(今まで日本人が行ってきた)生き方の否定であるということなのでしょう。別に奇をてらったものでもなんでもなく、まっとうな、啓蒙思想なんです。

対立感情は文化の低いせいというが、国と国との対立がなくなっても、人間同志、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。むしろ、文化の進むにつれて、この対立は激しくなるばかりなのである。

結局は、個人なのであり、その個人のふるまいなのであり、個人同志の対立。このレベルにおいて、いったい、なにほど、人間は進歩したというのか。
ただ、そういって現実を嘆いたすぐ後で、安吾は、ちょっと奇妙な感想をもらす。

人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分からぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、豪にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。

人間、すてたもんじゃない、ということを言っているようにも思えるし、ばかにしているようにも思えるし。とにかく、人間のほっといても内側から、ふつふつとマグマのようにわきあがってくるエネルギーに賭けてみよう、ということなのでしょうか。
ある程度、分かって言ってることでもあるんですね。
マクロにおいて、一度、カラクリの破壊が必要だと言って、でも、そのカラクリこそ、人間が弱いゆえの、防衛的なものだったわけで、でも、それでも、一度、そのカラクリを捨てて、自らの個と向き合わなければならないんだ、と。じゃあ、他方で、ミクロにおいては、だれもが、自らの個的な自立と向き合っているんだし、個人同志の対立に、向き合わず逃げたり、悩んだりしてるんであってね。じゃあ、どうしたらいいのという、解決策のある話じゃないわけだ。
ありあわせの「カラクリ」に盲目的に身をまかせることだけはなんの解決にもならないけど、じゃあ、やれることはといっても、ただ真摯に向きあうことくらいしかありえない。
とにかく、自分の感情に素直になるところからしか始まらないことは、確かじゃないか、と。

生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。

坂口安吾全集〈14〉 (ちくま文庫)

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