郷原信郎『「法令尊守」が日本を滅ぼす』

著者は、「日本は法治国家ではない」と言う。それは、一体どういう意味なのか。
よく言われるのが、90年代からの、自由化の流れですね。
それまでの日本は、護送船団方式による、行政指導型の政治であった。基本的になんでも、官僚が、企業に、指導というかたちで、くちだしを行い、企業は不正な動きをしないように、コントロールしてきた。
しかし、90年代、小泉首相時代の、竹中政治などを受けて、どんどん、アメリカ型に変化していく。
まず始めたのが、さまざまな国家事業の民営化。しかし、これは、そもそも国家の資産を手放すということであり、じゃあ、なんで今まで、国がやってたのか、となる。
また、談合の禁止、競争入札の厳正化。確かに、談合を撲滅して、4割安くなったと言います。しかし、それで、こちらが求めていたような、品質の公共事業が、行われるのでしょうか。さまざまなところが、節約、節約で、本来、もう少し豪華に、セキュリティがしっかりして、作りたかったとして、こういった、競争は、そういう要請に答えるやり方なのか。受注した会社の倒産などで、工期が遅れたりもしているという。
あと、ノーパンシャブシャブなどあって、官僚が、民間企業と接触することは、著しく制限されるようになった。しかし、このことは、決定的に、官僚の質、能力の低下をもたらしてしまう。官僚は、いわば、企業の現場を知らない、ど素人の集団になっていってしまう。本当に、まったく接触がないことが、そこまで必要だったのか。
日本においては、法律は、官僚が作ってきたのが、日本の伝統であったが、現場をどんどん分からなくなった官僚がつくる法律は、どんどん現実と乖離し、本来のその法律の作成目的と離れた、トンチンカンなものばかりが、乱発されるようになる。
もともと、アメリカにおいては、官僚は、毎回、かなりの中心的部分を、大統領が民間から、ひっぱってきます。相当、状況が違うはずなのに、まったく同じものをもってこようとする、それを、グローバル・スタンダードだとして。
あと、枝葉末節の法律を覚えて守ることが、コンプライアンスとされている最近の風潮を批判する。確かにそういう細かい細則が大切な場合もあるでしょう。しかし、そういったことにこだわることは、もともとのそういう細則の元となっている考えをおろそかにしがちになるし、広範囲にわたる細則は縦割りを必要とし、その結果、役割分担がされることで、横の連携がわるくなる。

その典型的な例が、JR福知山線脱線事故の際に、被害者の家族が医療機関に肉親の安否を問い合わせたのに対して、医療機関個人情報保護法を楯にとって回答を拒絶したという問題です。

普通に考えたら、当たり前のことです。人として、良心にもとづいて、生きていればいいはずです。そういう根本の考えにもとづいて行動して、末端のなにかの法律違反だとしたら、むしろ疑わしいのは、その末端の法の方でしょう。
そのほか、いろいろな例が載っています。ヒューザー小島社長の事件を受けて、改正された、建築基準法は、やたら細かくすることが、本当の解決だったのか。ほか、コロナの湯沸し器。東横イン
最終的に著者が言いたいことは、もっと、本来の、法の根本の精神が、実現されるということは、何を意味しているのか、そういう(法の枝葉にとらわれない、根本の)正義を実現しようという、そういう態度に、国民すべての考えがなることこそが、重要なんじゃないか、そういった主張なんじゃないでしょうか。

「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)

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