佐高信『魯迅烈読』

魯迅(ルーシュン)について、今、どれほど人がその重要さを意識しているか。佐高さんは、若い頃から、多くの影響を受けてきたという。
魯迅は、毛沢東の時代に、一時期だけ、国民文学になるんですよね。この儒教、権力を徹底的に批判する魯迅がそういった位置付けになるというのは、中国という国は奥が深い。

魯迅について、たとえば竹内好はこう要約する。

苦しくなると、とかく救いを外に求めたがる私たちの弱い心を、彼はむち打って、自力で立ちあがるようにはげましてくれる。彼がとり組んだ困難に比べれば、今日の私たちの困難はまだまだ物も数ではないのだ。これしきの困難に心くじけてはならない。ますます知恵をみがいて運命を打開しなければならない。魯迅は何ひとつ既成の救済策を私たちに与えてくれはしない。それを与えないことで、それを待ちのぞむ弱者に平手打ちを食わせるのだが、これ以上あたたかい激励がまたとあるだろうか

以下は、「フェアプレイは時期尚早である」ですね。

誠実なる人がしきりに叫んでいる公理にしても、現今の中国にあっては、善人を救助することができないばかりでなく、かえって悪人を保護することにさえなっている。

「公理」は、つまりフェアプレイということである。

なぜならば、悪人が志を得て、善人を虐待しているときには、たとい公理を叫ぶ人があっても、彼は決してきき入れはしないから、叫びは単なる叫びだけに止り、善人は依然としてひどい目にあう。ところが、たまさか善人が蹶起した場合には、悪人は本来ならば水に落ちなければならぬところがあるが、そのとき、誠実なる公理論者は「報復するな」とか、「仁恕」とか、「悪をもって悪に抗する勿れ」とか......何だかんだとわめき出す。すると、この時ばかりは効果てきめん、決して無駄な叫びに終らない。善人は、なるほどその通りだと賛成し、かくて悪人は救われる。だが救われた後は、もうかったぐらいにしか考えず、絶対に悔い改めなどするものでない。のみならず、兎のように三つも穴をこしらえてあるし、人に取り入ることも上手だから、まもなく再び勢力を盛り返してきて、前と同じように悪いことをやり出す。そのときになって公理論者はもちろん再び大声疾呼するであろうが、こんどは耳を貸すものでない。

こういうことを言うんですよね。まあ、老子的と言ってしまえば、みもふたもないですけど、以下なんて、そういう分類は違うでしょう。

青年はどうしてあの金看板をかけている指導者を求める必要があろう。それよりは友を求めて、一しょになって、生存できると思われる方向へ歩くに越したことはない。君たちにあふれているものは元気な力だ、深林に出会ったら、伐りひらいて平地にすることができるし、荒野に出会ったら、樹木を植えることができるし、砂漠に出会ったら、井戸を掘ることができる。荊棘にふさがれた古い路をきいて何になる、黒けむりの毒ガスの阿呆指導者を求めて何になる!

なんだ、魯迅は中国人じゃないか、と言う人は、そもそも、そういった国による分割を疑うべきだ。彼は日本に留学し、日本から多くの影響を受けているし、魯迅を読んで、作家活動を続けた、多くの日本の作家もいる。我々は、むしろ魯迅を読んで、日本を再発見するのだし、魯迅を読んで、中国の歴史を再発見する。

魯迅烈読 (岩波現代文庫)

魯迅烈読 (岩波現代文庫)