ETVワイド・ともに生きる選「テーマ子ども虐待」

NHK教育で今日やってた。番組では、今まで、一連のシリーズで出演した方々、加害者、被害者、両方が一同にかいして、討論するような形で番組はすすんだ。
とにかく、衝撃的な話がどんどんとびかう。
被害者側。父親が家を出ていき、兄弟の中で、自分が父に似ているということで、自分だけ、しつようにいじめられる。往復ビンタ。ご飯を食べさせない。つばをかけたご飯を食べさせられる。おばあちゃんに始終「おまえはいらない子だ」と言われ、おねえちゃんがそれに乗って暴力。ちらかした消しゴムのかすを食べさせられる。足に火をつけられる。
そして、こういう被害者であった女性が、母親になって、悩むというケースもあった。義理の父親に性的虐待を受け、逃げようとするとと強くねじられる。それからずっと、ベットで寝れない。18歳で家を出て、結婚して、子どもができたのだが、子どもは普通にすやすや寝れることに、なんともいえなく、憎しみのような気持ちを抱くことがある。自分は親がお弁当を作ってくれなかったので、自分でお弁当を作った。おかずは、余り物しか使えなくて、学校では、お弁当を広げて食べれなかった。子どもには、ちゃんとしたおべんとうをつくってやるんだけど、それが自分の体験と重なって、つらくなる。いつからか、リストカットをするようになる。
出演していたカウンセラーの人の話として、子ども虐待というタイトルであるが、この表現は適切でないという。英語では、abuse と言って、乱用。つまり、子どもを親など周りの人が利用するということなのだ、と。そのカウンセラーはさらに、たしかに、それは悪いことという認識は必要。しかし、正当に怒れる、それをできることこそ大切なんだと。うまく回復してくれた例として、おかあさんに どうしてもいいたいことがあると言って、母親に思っていたことを全部うちあけたケースがあって、もちろん、それで関係がこじれる場合もあるけれども、一度、徹底して、はっきりさせる経験が必要なんだと。
ヒューム的に言えば、過去の自分というのは、自分「ではない」。まったく、別の存在と考えるべきなのだが、人間はそうできない。しょせん「自分」とは「対象」であって、「物」。記憶とは、コントロールするもので、必要なときに引出せればいいもののはずなのに、記憶の方が心を支配して、勝手にフラッシュバックしてくる。
幼児虐待の問題は深刻である。なぜなら、被害を申告して、現状回復を要求する能力のまだない存在が子どもであるから。番組の中でも、「親のことをそんなふうにいうもんじゃない」みたいな世間の声にさらされている、みたいに言う被害者がいたが、分かるでしょう。世間は、統計的なマイノリティに冷たい。こういう無理解に会うたびに、言葉というのは、無力だなと思ってしまう。むしろ、この被害者が苦しんでいることというのは、こういった世間の無理解からくる、ナイーブな言葉、ふるまいなのではないか。こういった絶えず繰り返される反応に、彼女たちは、むしろ狂っているのは、自分なんだという、呵責に悩まされる。むしろ、狂っているのは、世間の方なのに。
問題発言だと思ってあえて言うが、それほど、家族というのは、自明なのか。なぜ、こういった事実に目をつむり、こういった虐待から、子どもをサルベージュするシステムの構築を目指そうとしないのか。なぜそこまで、親子幻想にこだわり続けるのか。
最後の方で、子育てに悩む奥さんが、「いつでもケータイをかければ夫がでてくれたことで救われた」みたいなコメントがあったが、非常に象徴的である。人間は話しを聞いてくれる人が必要......。