国家犯罪

今月の朝生ですが、家族会や、彼らと行動を共にしている政治家の発言は、あいかわらず、北朝鮮の非人道行為を国民にアジる、そのパフォーマンスに終始したと思います。特に、森ってオバサン政治家はひどかった。政治の仕事は、トラブルの解決でしょう。そして、それを話し合うための、議論の場でしょう。ああいうアジは、なんの解決の提示にもなっていない。
田原さんの提案は、今、向こう側が認めているスキームにおいて、拉致実行者の日本側への引き渡し、ですね。確かにこれが求められてこなかったことは不思議ですが、これがあえてまっさきの課題とされてこなかった理由は、日本側も、こんな向こう側が言っているスキーム自体が、まったくの政治決着でしかないことを理解していたからですね。しかし、この硬直した状態を動かすには、一つのアイデアなのでしょうね。
でも、そもそもの問題は、議論にもなっていましたけど、日本が、なにをもって解決とするのかの、グランド・デザインを、国民に向けて、提示できていないことでしょう。言わば、「たんなる」被害者になってしまっているわけです。
あらゆるトラブルは、その解決の手段とセットになって、始めて、トラブルとして現れてくるわけです。つまり、国際犯罪というなら、国際法で裁くしかないし、国際法に納得できないなら、問題そのものが「ない」とするか、違った種類のものとして、お互いで「手打」をするしかない。いずれにしろ、当事者間の問題なのです。
その場合に前提として、二つの選択肢があります。議論をするかしないかです。つまり、相手を、相手として認めるかどうか。実際、被害者の会では、露骨に、北朝鮮の今の国家体制の転覆に言及しますよね(これは、北朝鮮内部の動きでなく、外圧での要求でそうなるなら、いわば、「北朝鮮が戦争に負ける」ということですからね)。はっきりしていることは、安倍元首相を含めて、被害者の会にむらがっている保守派の連中は、相手として認めることそのものに反対の連中なんですね。言ってみれば、敵国というカテゴリーで考えていて、だから、「解決」はありえない、「解決」してはダメだし、「解決」そのものに反対しているんですね。
しかし、もし、相手を相手として認める立場にたつなら、どういった方向が、そもそもありえるんでしょうか。もっと言えば、被害者に、解決案の提示は「できる」のでしょうか。
常にそうですが、犯罪被害者は、3つの問題に直面します。真相究明と、現状回復と、応報感情です。この3つがコチャゴチャになるわけです。当然ですが、被害者サイドは、これらすべてをみたしてもらえなければ、満足しないでしょう。
応報感情で考えるなら、責任者の処分となるでしょう。
しかし、この問題の特徴は、北朝鮮にとって、当時の国際情勢からくる、「戦争行為の延長」なんですね。また、ほかの国の拉致被害者もいるわけですから、2国間で閉じる話でもない。
もし、日本側が責任者の処分にこだわるなら、国家犯罪は、国家元首にゆきつくのですから、トップのキム家の処分に言及せざるをえない。
まさに、東京裁判のスキームの再現でして、なぜ、天皇が裁かれなかったのか、この問題をむしかえすような話になる。
真相究明で考えるなら、最終的には、北朝鮮国内が、あのように外部から隠されている限り、完全な解決はないでしょう。しかし、逆に言えば、北朝鮮のトップは、当然、ほとんどの現状を把握しているわけですから、いろいろな手打がありうる。
しかし、被害者にとって、最も、望んでいることは、当然ですけど、現状回復じゃないんですか。これだけ、お互いの国家にもてあそばれて。拉致されて、今でも生きている人は、早く、家族と会いたいはずですし、連絡をとれる状態になりたいんじゃないんですか。そしてこれは、少しでも早く進めなければ、寿命のある問題なんですし、回復できないまま終わってしまいますよ。
よけいなことはいいから、北朝鮮国内にいる、昔、日本国籍をもっていた人を、いったん日本の親族と連絡をとらせろ、でいいんじゃないですか。いきさつなんてどうでもいい。お互い、儒教の国として、「家族に会いたい」って、一言言えば、いったいこれに、誰が反論できますか。そんな親不幸な状態をほっとくことになんて。
当たり前ですけど、なんでも「善と悪」の二分法でわりきることは建設的ではありません。お互いの国家は、組織として、それぞれ今の国際情勢の力学の中で、ぎりぎりの選択に流されるものなわけで、「北朝鮮が憎い」から「北朝鮮の国家転覆を求める」という方向では、その正統性にかかわって、北朝鮮建国以来の、日本とのこの応報の応酬の連鎖は終わることはないでしょう。しょせん、国家など、「組織」でしかない。組織に「人格」はないのです。
むしろ、お互いの国民に、言論・表現の自由、情報へのアクセスの自由、移動の自由、住む国の選択の自由、こういうものを与えること、たったそれだけで、組織などどうでもよくなるはずです。それが、欧州の社会主義国の崩壊の流れですよね。
こういった流れの中で、大変考えさせられた本が、前にちょっとふれた、

武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

ですね。現代における、国家間紛争は、なにも、日本と北朝鮮の二国間だけじゃないんですよ。世界中、それで悩まされているんです。そういう現状に、少しでも、先進的なヴィジョンを提示するのが、政治家じゃないんですか。
例えば、中国は、社会主義の理念がありながら、国家全体として、富が増えることの重要性を国民に訴えることで、今の経済発展の方向に向かいました。おそらく、かなりの国民は現状に不満でしょうが、これが政治ですよね。組織には向かう方向が必要だから、とにかくそれを指差す役割が政治家は求められる。
森とかいうオバサン政治家みたいに、政治家が、狂信的に、現状をアジることしかできないだけなら、いずれ、自分たち、日本の政治家が、日本の大衆のナショナリズムをコントロールできなくなりますよ。