雨宮処凛『「生きづらさ」について』

萱野稔人さんとの、対談集。
雨宮さんというのは、前に、少し右翼のパンク・バンドをやってましたよね。右翼から左翼への転向ですか。彼女が右翼活動をするきっかけとなったのが、左翼の集会に行ったら、大学出身の難しいことばっかり言う人だった、んだけど、逆に右翼は、大学出は、リーダーくらいしかいなかったからだと。
たとえば、萱野さんは、フランスの例として、こんなことを言ってます。

萱野 たとえば「RMI(社会参入最低限所得)」という制度があるんですが、これは80年代以降の新しい貧困に対処するために、1988年にできた一種の所得手当です。まあ、日本でいうと生活保護に当たるんですが、でも、大きく違うのは、日本では働く能力があるとみなされると生活保護は認められませんよね。でも、RMIの場合は認められるんですよ。もともとこれは、たとえ働く能力があっても失業や貧困などでどんどん社会から脱落していってしまう人間を、なんとかそこから抜け出させ、社会へとふたたび参入でいるようにするために導入された所得手当なので、最低所得賃金に達しない人間は基本的に、その差額を受給できるんですよ。

よく考えると、なぜ日本はここまで来ていないのかは、不思議な感じもあるんですね。逆に、やらない理由はなんなのか。親族が面倒を見るべき、なのか。国には、金がないから、なのか。お金を稼げない奴が(手を抜いてるなどで)悪い、なのか。とにかく、こういった方向の視点が弱いんじゃないのかな。なんでもそうだけど、「やらない」には、立派に理由のいることだと思うんですけどね。
私が、おもしろく思った個所がある。

萱野 雨宮さんは、赤木さんのかなりの理解者ですよね。
雨宮 そうですかね。
萱野 そうでもないんですか?

こんな、雨宮さんの反応に、ちょっと違った切り口で、萱野さんも、反応しますね。

萱野 だからむしろ、いまは「赤木以前」という状況がかなり広がりつつある。つまり、ナショナリズムにすらいかないぐらい脱社会化されてしまった底辺層がいるわけです。本田由紀さんもおっしゃっていました。むしろ問題はそちらのほうじゃないか、と。現状を不満に思ってナショナリズムにいくのは、まだ可能性があるというか、社会化の回路がまだ保たれている。

萱野さんは、学者らしいというか、バカのひとつおぼえみたいに、「承認」という言葉を、くりかえしますね。私はこの言葉、完全な哲学(=社会学ジャーゴンだと思いますけどね。この言葉、結局なにが言いたいの?なんのイメージもわきませんけどね。この辺が、文系学者の文学的なユルさなんでしょうか。
まあ、そんな感じで読んでいくと、雨宮さんって、かなり変なこと、どんどん、言ってますよね。

雨宮 私には、日常をただ生きていくというのは無理なんですよ。無理というか、日常を生きて承認されるというすごく幸せなパターンもあるはずですが、それは自分もふくめて一定数の人にとってはありえないことだと思うんです。だから、何らかのかたちで社会的な承認を得るためのアクションをおこさないと生きていけない気がする。

雨宮 でも、ただ日常のなかで承認されれば満足な人ってどれぐらいいるんですかね。ただ生きているだけで承認されるべきだとは思いますが、それだけで自分を肯定できる人はなかなかいないんじゃないでしょうか。それだけじゃダメ、それだけじゃ足りないと、つねに思わられているというか。

雨宮さんは、家族ともうまくいかなかった面があるみたいだし、中学時代はひどいいじめを受けたと。高校の頃は、その経験から、たちなおれれず。学校時代の友達は、いないし、つくらなかった、と言っているんですよね。リストカットもかなりやった。
萱野さんのユルい分析は、聞けば聞くほど、なんかトンチンカンな気がするんですけどね。そう思ってくると、ちょっと、萱野さんが、雨宮さんを怖がってるようにすら思えてきますね。

「生きづらさ」について (光文社新書)

「生きづらさ」について (光文社新書)