斎藤環『母は娘の人生を支配する』

この本では、親子関係を、性によって分類した場合の、父-息子、父-娘、母-息子、母-娘のうちの、最後の「母-娘」を特異な形であるとして、分析した本となる。
斎藤さんの記述としては、バランスのとれた、それなりに現場でやっている方という面もありつつの、よくまとまった内容だと思います。
しかし、それだけというのが、印象ですね。あまり、衝撃を受けたというような感じは受けなかった。著者自身の解析は、ありきたりでしかないと思う。
ただ、ここでは、母-娘でなく、一般に、親子関係について、個人的に、読んでいる間に思った、二つのことを書こうと思います。
一つ目は、日本の家族制度についてです。
日本における、イエ制度は、もっとも形として存在したのは、江戸から戦後の前までの期間でしょう。長男を頂点にして、イエという疑似企業のように、組織の存続を目的として続いてきた制度です。
しかし、この制度は、まったく、日本古来からある、というものではないと言っていいんだと思います。前にもどこかで書きましたが、南北朝時代から、室町時代にかけて、日本において、資産の相続の形態が、兄弟間での、分割相続から、長男による、全相続に変わるんですね(なぜそうなったかの詳しいところは知りませんが)。そして、それにともなって、当時、大きな、社会的混乱があったといいます。江戸時代などは、武士階級の次男、三男などは、家督の相続権がないわけですから、いわば、「自由人」のような生活となり、変わった社会的存在となるわけですね。もちろん、江戸時代だろうと、武士や商人を除いて、どこまで、このイエ意識があったのかは、あやしいですけどね。
逆に戦後は、前の子供同志の平等分割に戻ったわけですから、基本的にイエ制度は(しかも法律上は男女平等は実現している)、そこで終わってるんですよね。昔に戻ったと言ってもいい。そうなんだけど、さまざまな慣習は、そう簡単に変わるわけがない。文化的意匠は、完全に昔のままですから、どうしても、言葉による、メッセージは、ダブル・バインドの様相を示す。今は、その混乱期なのでしょう。
では、昔に戻るもの、残るもの、その二つとも違うものになっていくもの、これらはどういう関係になるといえるのでしょうか。
一つ言えるとしたら、おそらく、母系的な社会構成がより強くなってくるだろう、ということでしょうか。これは、象徴的に言えば、家系図を、女性を中心に描く、ということです。もちろん完全にこちらにふれるかはともかくとして、そういう圧力は強くなるだろう、と。
なぜなら、もともと、そっちの方が、安定的だと思うからですね。
騎士道精神でもそうですが、なんにせよ、女性が中心に主体的にモノを考えるような関係は安定的でしょう。社会的なストレスをどっちが重くうけるべきとか、そういう話じゃないんですが、常に女性の側が精神的に安定していた方が健康な社会だろう、と。少なくとも、妊娠してから、出産するまでの女性の精神的な安定は、生まれてくる子供にとっては、決定的な部分があるわけですから。
さて、二つ目が、母親と子供の、密結合(?)についてです。
よく考えると、育児というのは、かなりの長期にわたります。私たちは、「学ぶ-教える」の関係を、ワン・アクションのものとして考えがちです。しかし、長期にわたってそれが反復されていると考えると、それは、なんなのか、という話になるんだと思います。
そこで、典型的な場面として、妊娠してから出産するまで、そこまでの時期があります。産んだ女性は、絶えず、その期間を、ふりかえることになります。「今のこの子がこんなふうにあるのは、あの時期に、私が、あんなふうにしていたからじゃないか」、とか。
そこには確かに、言い訳のできない、密結合があるのでしょう。原因論は、責任感情を、導出するというわけですが。しかし、それが完全な密接性と考えることも間違っています。別に、お腹の子供と、神経系がつながっているわけでもないですし。しかし、単純に、物理的振動は、同じく伝わりますし、栄養は、子供にどんどん、吸い上げられていきすし、かなりの密接さはある。
よって、母親は、いつまでたっても、けっして、子どもの表現する現象と、自らの過去の所作を、切離して考えることは、決してできない構造になっている。
では、代理母ということを考えてみましょう。
関係ないですが、その前に、代理母の性質と評価について一言しておきます。試験管ベビーが、進化論的に、かなり人工的な所作であるのは間違いないわけですね。実際は、ものすごい量の精子の中で、たまたま元気がよくて、卵子にたどりつけたものが、自然に受精するのが、普通のケースで、試験管ベビーは、顕微鏡で、元気よさそうな精子を選んで、無理矢理着床させるわけですから、かなり、人工的だ。だから、それなりに慎重になる考えは理解できますけどね。
代理母の場合は、間違いなく、粗結合です。しかし、まったく上記感情がなくなるわけではなく、違った性質のものになります。つまり、上記の責任は、「なぜこの人に代理母を頼んでしまったのだろう」という形の責任感情に変わります。しかし、それであっても、上記の濃密なものに比べたら、精神的には、だいぶ楽なのでしょうが。
さて、上記二つの視点において言いたかったことは、家族というものが、あたかも、人類がこの世界に現れた時点から始まって、決して、逃がれることのできない、究極的な十字架だ、みたいな考えは、自分は嫌いだ、ということです。
基本的にあまりにも濃密な関係というのは、異常なんだと思いますね。大人とか成人というカテゴリーがあり、成人式などというセレモニー、儀式が行われるものですが、ここで、「親子」でなくなる、と考えるべきなんでしょうね。実際、そこに向けて、少しずつ、親離れ、子離れのための精神的な準備、段階をふんでいく作業が、教育なのでしょう。早い話、家を出るなり、関係がほぼなくなれば、嫌でも、なんの関係もなく生きていかざるをえないんですからね。どこまで深刻に考えるんだって、これくらいのレベルでは、楽天的なスコープにならないと。
日本の家族制度の変遷は、今、自明と思っていることの、かなりの部分が、非常につい最近、慣習とされてきただけのもので、なんら、「しかたない」を忍従するものじゃないはずです。
また、代理母という視点は、母親と、子供の密結合の部分的な粗結合化の、意味についての考察をうながすでしょう。
少なくとも、こうやって、内省的に言うなら、親子関係は、かなり分析的にやれることのはずなので、ね(実存的には、多くの人が苦労しているのは当然だとしてもですね)。

母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)

母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)