渡辺和行『ナチ占領下のフランス』

フランスは、ヴィシー政権時代の4年間、ナチスに占領されていた、ということは、歴史を勉強した人なら、だれでも知っている。しかし、このことが、なにを意味しているのかを、どれくらいの人が考えているだろうか。
まず、フランスが、もしフランスたりえたとするなら、それは、フランスがなんらかの形で、ナチスに協力的態度であったからであろう。
このことは、重要である。戦後、そのために、さまざまな戦犯探しが行われて、今でもときどき、糾弾されている。

耳目を驚かせたのは、社会主義者かつレジスタンス闘士ミッテランの右翼的過去であった。1930年代のミッテランが、クロワ・ド・フの青年組織と接触して外国人排斥のデモに参加したこと、ヴィシー期のミッテランが国民革命に共鳴して、フランス戦士団で捕虜の再就職斡旋の仕事をしてペタンから勲章をもらったこと、ユダヤ人迫害に無関心であったことなどが論点となっている。
ミッテランレジスタンス神話にも黄色信号が点滅しはじめた。しかしペアンの本は、大統領が提供した写真や資料にもとづいて執筆されていた。だから、ミッテランが、マイナス・イメージも恐れず、「社会主義者ミッテランの評価に関わる問題について、みずからの過去を赤裸々に語ったともいえる。

私は、このフランスに似た境遇にありつつ、でも、それなりに違った側面も付随している国として、朝鮮半島を考えてしまう。もちろん、日本による朝鮮半島の植民地化は、かなりの期間にわたる。また、戦後、朝鮮半島は冷戦大戦の中、国家の分裂という事態になっている。こういったことは、大きな違いである。
しかし、むしろ、戦後の両国の国民の性格的な傾向性に多くの相似性を感じる。それは、一般に、「自分勝手」、「自分のことしか考えていない」とか、そういった傾向があると言われることを言っているのだが、逆に、こういう歴史的な経緯をもつ国民であるからこそ、そういう傾向も、ある種の尊敬をもって、私は考えるのだが。どうしても、国民を「裏切り者」と区別できないで生きてきたことは、自己以外をそう簡単に信じられないということであったでしょう。そこで、まず自己の理性から全て始めるということになるのだろうし、そのことは、でも、大人の第一歩とも言えるでしょう。
もし、我々が別の倫理的な規範を考えるとしても、こういった難しい歴史的経緯をもつ国でこそ実現させられえないようなものであるのなら、それを内輪だけに閉じて、考えることは空疎な絵空事でしかないでしょう。
さて、分析にはいりますが、やはり、第二次大戦の特徴は、ゲルニカに始まる、空爆による、無差別爆撃。そして、それをうまく使っての電撃的な突撃戦法であるでしょう。あっという間に相手の領土に攻め込み、占領してしまう。
とにかく、あれだけ、小さく陸続きに国土が隣接している状態では、この戦法はかなり有効であって、ナチスは、次々と回りの中小国を占領していった。
占領というのは、戦争を知らない私たちにとって、どれだけの恐怖と人格的崩壊を伴うものなのかを、なかなか空想できないものだろう。
もちろん、ナチスも世界の目を気にするわけで、それなりにフランス人を丁重には扱う。しかしそれは、まず、ドイツ優先が前提である。国家制度の中に、人種による、人権の守られるレベルの違いとして、ドイツ人、フランス人に、差(差別)があるということだ。
また、4年という期間は微妙ですね。国内レジスタンスはあったでしょうが、マインド・コントロールにしても、ちょうどそれくらいの期間が、その人の人格のすみずみまでズタズタに切り裂いて、もう戻れなくなるくらいまで痛め付け「終わる」、ちょうどくらいの期間なんじゃないですかね。フランスの人々は、戦後、精神的にこそ、苦労したんじゃないですかね。
そして、ナチスの場合、どうしても人類が忘れることのできない犯罪こそ、ホロコースト。この犯罪は、まず、ユダヤ人を、理由なく、ナチの警察が拘束するところから始まる。理由なんて、ないに等しい。とにかく、拘束する。そして、彼らが社会の目からふれなくなった時点で、裏で、一カ所に集めて、毒ガスでまとめて殺す。
ユダヤ民族のこの世からの消滅を狙った行為であり、こういったレベルの「悪」が、この時点の世界の歴史に現れたということが、深刻なんですね。ヒットラーという独裁者が、この民族という単位での、全滅を目論んだということ。そしてそれが、かなりの範囲で、実際に実行されていたこと。
この悪ですよね。これに一体、その後の歴史の主体は、どういった仕組みによって、対抗してきたのか。どれほどの、理論武装を行ええてきたのか。
まず、官憲が今においても、簡単に拘束して、社会の目からその存在を見えなくすることは、まだ、かなりの範囲で残っていないだろうか。少なくとも言えるのは、死刑ですね。欧米で、死刑が廃止の傾向になっている理由として、この問題への意識があるのではないだろうか。少なくとも、死刑がなくて、それなりに、生き続けられれば、それなりの社会との糸は残されて、本人による不当性の訴えを、われわれが聞く機会は残ると言えるであろう。恐いのは、その存在を、社会の目からその存在を見えなくすることで、あたかも、もういない存在であるかのようにされることなんですね。
国家による個人の社会的抹殺。まず、このことの深刻さに考えをおよばせることこそ、先決でしょう。

ナチ占領下のフランス―沈黙・抵抗・協力 (講談社選書メチエ)

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