ディヴィッド・ウォルマン『「左利き」は天才?』

この本では、さまざまな視点から、「左利き」という現象について考察する。ジャーナリストの著者自身が、ディープな左利きだという(ちなみに、私もそうであることは断っておくが)。著者は、共感どころか、当事者ですから、まるで、自身のルーツを探るように、書かれている。
左利きが異様なのは、その現象である、普通に目の前に立っているだけでは、なんのことはない普通の人なのだ。だが、ひとたび、バッターボックスの左に立ってみるがいい。ひとたび、左手に、エンピツを持って文字を書き始めてみるがいい。回りで見ていた人は、実に、異様な現象が、突然、目の前に立ち現れている状況に、なんともいえない気持ち悪さを感じるわけだ。
左利きは全人口の1割といわれる。1割というのは、統計学では「無視していい」数字ですからね。この本でも、その非対称さ、についてはこだわっている。ここまで非対称なんだけど、かといって、ゼロにもならない。
そもそも、左利きに問題があるとするなら、それはなにか。よく、スポーツの分野では、そちらの方が有利な場合があることが言われる(もともと変な形で生きてきているわけだから、変なところの筋肉が鍛えられているわけだ)。まあ、スポーツくらいの遊びなら、牧歌的なものだ。
ただ、文字を書くという場面にいたると、ほとんど背理に近くなる。左手で、文字を書くというのは、実際やってみるとわかるが、なにを言っているのか分からないくらい意味の分からない、無理筋の話であることがわかる。やっている人を見てみればわかるが、ほとんど文字を書いているんじゃなくて、なにかの芸術活動をやっているような、鑿で木の仏像でも彫ってるような、そんな趣になる。
もともと、文字は右手で書くようにできているから文字なのだ。こういった状況は、特に、ペーパー・テストのような場面ではディスアドバンテージとなるのだろう。往々にして、テストモノは、能力を計るものとしては、いろいろ問題が言われるわけで、だから、ゆとり教育がどうの、となるのでしょうが。
この本を読むと、日本では、左利きはもっと少ないという統計もある、ということが示唆されている。やはり、漢字圏では、習字といって、筆で漢字を書くのであって、それは右手で書くことを前提として成り立っているものですからね。左利きのだれもが一度は矯正させられているはずだ。しかも、儒教では、礼が重んじられ、なにもかも形から入りますから。存在自体がありえない、許されていないんですね。
逆に言うと、最近は、習字の塾もそんなに行かなくなっているようですし、統計的には左利きの子供は増えているのではないでしょうかね。文字もキーボードを使うことが一般的となってきているし、ますます、この差異を意識していかなくなるのかもしれませんね。
ここまで、この左利きというのをなにか、自明のことのように書いてきたが、しかし、この左利きの定義ということになると、ほとんどその定義をどうするかが、あらゆることの答くらいに混沌としてくる。
まず、左利きといっても、右手が何もやっていないわけではない。だいたい、左手が器用な作業ができるのは、右手が体と対象物を固定して、制御問題のように、しっかりしたバランスが実現しているから、という方が正しい。それぞれが、得意分野があるということなのだ。
また、違った角度から言うと、むしろ違いがあるのは、片手だけですべてを行う人と、比較的両手を使う人との違いであって、純粋になんでも左手だけでやる人というのは、さらに半分もいない、ということになる。
この二つの視点は言われてみれば、当たり前の話であるが、あまりにも、左利きの現象が強烈なので、あまり考えられていないということなのだろう。そもそも、誰も興味がないのだ。
この本では、列車の事故に遭遇して、右手の付け根に、左手を手術でくっつけた人が紹介されている。

ぼくがディケイターに着く前にエヴァンスは、頼んだわけではないのだが、自分がこれまでどんなメディアに取り上げられたかを一覧にまとめてくれていた。ニュース番組が流れた放送局名や、記事が乗ったり番組で放送されたりした年が丁寧に記されている。文字は、手の震えるお年寄りが書いたようにぶれてはいたが、何の問題もなく読むことができた。きちんとした文字がどうあるべきを十分に心得た、配慮とバランスが感じられる。パスタビリティーズ・レストランで、頭上のラジオからチャンバワンバの曲「タブサンピング」----「I get knocked down, but I get up again!(おれは叩きのめされても、また立ち上がる)」----が流れてきた。ハンドライティング大学で受けた週末セミナーがよみがえる。ふと思った。筆跡鑑定の専門家は、エヴァンズの震えた文字を見て彼の性格をどう分析するだろうか。

さて、彼は、もともと右利きだったわけだが、今はなんと言ったらいいんでしょうかね。
私も、小学校低学年の頃、習字を習い始めるのと一緒に、右利きに半年くらい矯正されたことがある。なんとか、右手で書いていたのだが、結局、直ることはなかった。もちろん、それを続けていれば、それなりにきれいな文字を右手で書くようになっていただろうという確信のようなものはある。今でも、それなりにトレーニングすれば、それなりのきれいさで、右手で文字を書けるようになるだろう(今でさえ、私の左手の文字はあまりに汚なくて、顔をしかめられる位なのだから、それよりましにできるくらいの自信はあるということだ)。
でも、それが「自然」になるということは、それが、なんらかの意味で、上記の人のように、脳の使い方の根底的な変更を迫るような過程を経て、しっくりくるという過程を受け入れていく経験がなければいけないのだろう。そういう意味では、私に、そういう無理強いを素直に受け入れるにはあまりに生意気になりすぎていていたということなのだろう。
しかし、多くの左利きの人は、その矯正を「受け入れる」。つまり、その「自然」でないという状態に慣れる、ということなのであろう。スポーツでも、左の方が有利ということで、そちらを選択する人もけっこういる。そうすると、右利きの人の左という、独特のバランスをもった選手となる。
高齢になると、ほとんどが右利きになるという話もある。そもそも、なにをやるために、なにをするのかという話で、まあ、人生を長くみれば、こういうことにこだわることには、なんの意味もないでしょう。
むしろつらいのは、子供の頃の、まわりのプレッシャー、社会的な無理解であって、その効果といえば、まあ、性格のひねくれた、社会をまともにみれない、変な性格の奴ができるってこと位じゃないですかね。

「左利き」は天才?―利き手をめぐる脳と進化の謎

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