小林敏明『憂鬱な国/憂鬱な暴力』

この本では、いろいろと近代イデオロギーの分析がされていて、興味深い(結局、何が言いたいんだろうというのは、ありますけどね)。
最初の方の、最近の歴史修正主義者への半分共感をもった分析の部分がある。

だが、あえて問いなおすならば、世界を二分した戦争において、いったいどこに「正当」な審級があったというのだろうか。国際連盟という脆弱ながらも最後の拠りどころを自ら放棄してしまったのは日本自身ではなかったか。あの松岡洋右の演説とともに日本は審級なき戦争への道を自ら選んだのではなかったのか。ヤスパースはこう言っている。

そもそものはじめから自国の領域内において原則的に自然法と人種とを侵害してきた国家が、その後戦争において対外的に人権と国際法とを破壊した場合、その国家は自分が是認しなかったところのものを今さら自分の利益のために是認してくれと要求する権利はない。(ヤスパース『戦争の罪を問う』)

私の問題としたいのは、しかし国際法についての論議ではなく、より一般的に、審級が成立しないところには、そもそもその内面化もその産物としての良心や罪責意識も生まれようがないという一般的事実である(だから、正直なところ、私はあたかも初めから人間には良い心が備わっているかのように信じて行動する自称ヒューマニストたちの過剰にオプティミスティックな人間観にもときどきついていけないことがある)。

まあ、分からなくはないのだけれど、あまり、こういう議論に興味はない。
私は、単純に、国家主義自国民中心主義的に、友敵論で、主張されるような民族主義の議論は、いわば、どこの世界でもある話だし、右翼、左翼、関係なく、世界中で、構造化されているような、議論だと思う。
だから、もし、こういったことを言っているだけならば、それなりに理解可能の範囲のところはあると思うんです(もちろん、日本の地方の教育機関などで、こういうものがかなり勢力を拡大していく傾向は、危険だとは思いますが)。
だから、むしろ、前の戦争の総括としては、日本型ファシズム、とでも言うべきものの研究ですね。あの息苦しいまでのなにかですね。

例えば、三島由紀夫は、全共闘に向けて、「ただ一言、天皇とだけ言ってくれ」なんですね。なんで、そこを分けるものが、天皇と言うか言わないか、それだけみたいになるのだろうか。これはなんなんだろう、ということなんですね。

芸術作品が伝統関連に埋めこまれているもっとも根源的な様態は、礼拝に表現されていた。最古の芸術作品は、私たちが知っているように、儀式に用いられるものとして成立した。最初は呪術の儀式に、のちには宗教的な儀式に用いられるものとしてである。さて、決定的に重要なのは、芸術作品のこのアウラ的な存在様式が、その儀式機能から完全に分離することは決してないということである。別の言い方をすればこうである。「真正」な芸術作品の比類のない価値は、つねに儀式に基づいている。(ベンヤミン「複製芸術時代の芸術作品」)

近代という時代に入って、天皇のもっていたアウラとそれに対する真の礼拝的価値が失われ、天皇制は大衆化とともに「展示」のみ目的とする「週刊誌天皇制」に堕そうとしている。これはある意味では文化的統合たる天皇の「政治」化であり、この非本来的状態から本来の天皇を救うためには、真に礼拝の対象となるような「死のアウラ」を備えた純文化的な天皇像を復活させる必要があり、そのためにはまず儀式の意味が改めて復活されなければならない、ということである。バタイユもまた供犠に関してこう言っている。

まさしく聖なるものとは、厳粛な儀式の場での不連続な存在の死に注意を向ける者たちに顕現する存在の連続性のことなのである。(バタイユ『エロティシズム』)

結局、今の、右翼、左翼の違いなんて、一言、「天皇」と言うかどうかだ、っていうところは実際ありますよね。これはなんなのかなとはちょっと思うんですよね。
ただ、上記の引用については、なかなかポイントをつかんでいるようにも思う。
荻生徂徠は、「礼楽」をすべての中心におく。
「楽」とは儒教では、音楽のことですが、これは、三島にあっては、文学そのものでしょう。このあたりに、三島の一方で、日本人のエロティックなまでの蜜月の統合のようなことを言いながら、他方で、政治を軽蔑し、文化の防衛、のようなことを言うことと、なにか関係もあるんでしょうね。
儀礼とは、簡単なものは、いわば、自分の意志を表明するボディー・ランゲージのレベルのものであるが、さらに仰々しくなることで、それぞれの共同体内での、パワー関係を象徴するような振舞いを言うようになる。礼の姿勢をとっているときというのは、完全に防御のとれない、無防備な姿をさらけだすようなところがあって、この格好をずっととり続けることは、ストレスとなる。ある種、権力者への恭順の意を示すには、必須不可欠な通過儀式となるのでしょう。この過程を何度も経ることで、思考停止にさせるような効果はあるのでしょう。
こういった、国内の抑圧の圧力は、今後ということでは、どういった性質をみせていくのか。もし、日本がアメリカとの関係を戦後のままで継続するのなら、こういった形なのだろうが、しかし、このバランスが崩れてきていて、じゃあ、どっちの方向に行くのか。アメリカとの距離ができたときに、日本ファシズムと言われたようなものが、なんらかの、むきだしで、露出してくるでしょう。それは、世界の中の、日本の経済的なポジションの低下にリンクしてこそ、考えられる。
最後は、「超越」の問題である。

もはや博物館に陳列された化石ほどの扱いをうける話題になってしまったが、今から百年ほど前、社会主義の運動が国際化しはじめたころ、その運動を舞台に「修正主義論争」というものがあった。これは論争の主役の一人ベルンシュタインが、プロレタリア独裁や暴力革命を拒否して、あくまでも議会における法律の改正を通して社会改革を遂行していくべきだという批判(『社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務』)を公にしたことをきっかけに、当時の社会民主党の政策をめぐって巻き起こった論争である。そしてこのときベルンシュタインにもっとも激しい反批判を加えたのがあのローザ・ルクセンブルクであった。歴史的な論文「社会改良か革命か」はベルンシュタインを正面から批判した文章である。この中でルクセンブルクは「改良」と「革命」の相違についてこう述べている。

そのつどの法制定はたんなる革命の産物にすぎない。革命が階級史の政治的創造行為であるとすれば、立法は社会の政治的やりくりである。法律の改正作業は革命から離れた独自の原動力をもっているわけではない。その仕事はただそのつどの歴史的な時期にあってその敷かれた路線の上を動いているだけである。しかもそれは、その路線の中にその前の大変革がもたらした歩みがまだ余韻を残している間、具体的に言えば、前の大変革が世界にもたらした社会形態の枠の内でのみのことであり、まさにここに問題の核心があるのだ。(ローザ・ルクセンブルク「社会改良か革命か」)

著者は、漸進的で少しずつ進む改良でないものとして、革命とか、そういった、

近代そのものをまるごと否定し、その乗り越えをはかる

考えが、思想や政治において、急激に前面に現れてきたこと、に注目する。よく考えれば、20世紀の政治は、この超越の時代であった。
しかし、一気に根底から違うものにするというのは、どこか、観念的な、人間の頭の中だけで、こしらえられたものを、無理矢理、現実社会に適用しようとするような、かなり無理のあることのようにも思える。実際は、うまくいくかを、検証しながら、少しずつ進まなければいけない部分もあるのかもしれない。
また、そういった超越の観念には、どこか、神秘主義的な飛躍をもった、論理的にこころもとない、基盤の上にきずかれたものかもしれない。
しかし、ローザ・ルクセンブルクは、そう考えるべきではないんだ、と。科学思想での、パラダイムのように、認識とは、飛躍を必然のものとして含みながら、前進していくものなのであって、改良などでは、いつまでたっても、なにも進まないのと変わらない結果にしかならないようなものだ、と。
わからなくはない部分はおそらくあるんですよね。ただ、相当、気をつけなければいけないってことではあるんでしょう(それだけじゃ、なにも言ってないのと変わらんねえな)。
ただ、著者は、日本において、この超越の思想の枠内の代表としての、キリスト教マルクス主義、この二つの思想圏の外において考えることは、ありえない、不可能になっているんだと、強調する。

だが、にもかかわらず日本近代思想の分野で、しかも超克型の発想に貢献したという意味で、キリスト教マルクス主義が果たした役割はきわめて大きいのである。たとえば「神ながらの道」を唱え、一見「日本独自の思想的伝統」なるものに根ざしているかのように見える発想さえ、それが明治維新以降に生まれた場合は、その中身をよく吟味してみると、いったんキリスト教マルクス主義との対決をくぐって生まれたものが少なくないのである。そのもっとも象徴的なのが戦中における日本浪漫派などの、いわゆるマルクス主義からの転向組であるだろうし、またたとえば北一輝のような急進的な国体イデオローグの中にもそうした曲折を経験したものが少なくない。つまり近代に入ってからの「日本的伝統」なるものは、そのほとんどが西洋との対質を通して新たに創り出されたものであって、その反照鏡的役割を果したという意味でもキリスト教マルクス主義は無視できない「西洋思想」だったのである。

理論というものが、こういった形で、どこか、超越をはらまざるをえないかぎり、日本だけじゃなく、どこでも、もう、ここ(キリスト教マルクス主義)を通ることなく、なにか、肯定的な思想のムーブメントが主張され、現れてくることは、もうありえないんでしょうね。

憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―

憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―