日野龍夫「謀反人 荻生徂徠」

最近、出版された本で、

徂徠学講義―『弁名』を読む

徂徠学講義―『弁名』を読む

を、読んだ。この本では、徂徠の『弁名』について、解釈した本で、この本を読んで、やっと、荻生徂徠というのが、どういう感触で、さわらなければならない存在なのかに気づいたところがある。
徂徠というのは、江戸中期の、吉宗の時代の人ですね。
徂徠が若い頃に、京都の仁斎は亡くなっていて、伊藤東涯と同世代になるんですかね。
仁斎が、孟子を介すことで、倫理の強調をした。徂徠の言ったことは、「それだけが、儒教じゃないだろう」、ですね。
彼は、「先王の道」を強調した。それは、確かに、孔子の関心の一部だっただろうが、しかし、徂徠の言うことを延長すると、まるで、儒教において、孔子は不要、のように読めるわけです。
しかし、仁斎にとっては、逆でしょう。ただ孔子だけが問題だった。キルケゴールにとって、イエスだけが問題だったように(こういった視点が、柄谷さんの仁斎論でしたが)。仁斎にとって、実際、論語のその倫理的な側面に、その他のことなどどうでもいいと思うくらい、興奮し、快楽を感じ、魅了された、ということなのでしょう。
こういった視点でみると、後から、徂徠がこういった主張をすることは、ネタとしては分かるんだけど、ひたすら、退屈なだけでしょう。凡庸なんですね。おもしろくない。
ただ、徂徠がこういったことを強調したこと、それには、当時の江戸中期における、日本の貨幣経済の大爆発という背景がある。あまりの貨幣流通の大爆発は、識者階層に、政治中枢による、社会のコントロールという、なんらかの上からの操作を不可欠のものと考える傾向を強くしていったんだと思いますね。
さて、掲題の論文ですが、そんな感じで、本屋をぶらぶらしてたら見つけた本の中にあった一章。日野さんというのは、徂徠の弟子の服部南郭をライフワークにしていた方だそうで、今は故人ということだ。
この論文は、よく徂徠の二つの側面がまとまっていると思います。一方の徂徠が本来言いたかった、国家主義的な面と、他方で、徂徠を受容した江戸大衆の、いわゆる徂徠ブーム。
徂徠は当時の江戸で、大流行するんですね。それは、徂徠の思想の副産物とでもいうような、比較的、各個人の気性に寛容なところが、気に入られたわけですね。朱子学は、勧善懲悪ですからね。一般庶民には、息苦しいだけでしょう。
というより、徂徠のそういう傾向だけ、世間は受け入れて、その他の徂徠の思想は見向きもされなかった、ということなのでしょうね。

服部南郭を代表する門人たちの大多数が、徂徠学を社会にかかわらない個人のレベルでうけとめ、師には横溢していた政治的関心を切り捨てたことは前述した。師の経世の志を継承した門人は太宰春台ただ一人といっても過言ではないが、春台の人がらには徂徠とどうしても相い容れない面があって、徂徠は春台を後継者として許すことができなかった。徂徠と春台の間に、思想的にも感情的にも抜きがたい疎隔感がただよっていた事情は、尾藤正英氏の「太宰春台の人と思想」(日本思想体系『徂徠学派』解説)に詳しい。一点に絞っていえば、制度万能論の動機にまでさかのぼれば確実に見出される、徂徠のあの寛容な人間観を、春台は致命的に欠いていた。門人が各自の器量に応じて徂徠学を歪曲してしまうのも、気質尊重の教育方針を堅持する徂徠の甘受すべき、まさに天命であった。

さて、徂徠のもう一つの側面の方ですが、子安さんが言うように、徂徠の思想の、宣長などの国学、後期水戸学派への影響は、もう、決定的と言っていいレベルだと思うんですね。完全に彼らの元ネタは、徂徠ですよ。徂徠が、彼らに国家主義的な思想の型を提供したところがある。そして、こういった思想の流れが、明治以降の日本のアジア侵略、の思想的バックボーンや、三島由紀夫の思想となっていく面があるわけですね。

徂徠の政治への関心が肥大化していたことをよく示すのは、『論語徴』である。古文辞学の実証性を発揮してすぐれた成果をあげたこの『論語』注釈書は、また孔子の一言一句を政治的文脈の中で把握しようとする顕著な意識によって貫かれてもいて、その解釈はしばしば奇矯である。例は枚挙にいとまがないが、たとえば「学而」篇の「人知らずして慍(いか)らず。また君子ならずや」。普通は、「自分の能力を他人が認めてくれなくても怒らない。これまた君子の態度ではあるまいか」とだけ解釈するのであるが、徂徠学における君子とは、後述のように、人格者という常識的な意味ではなく、支配者のことであったから、この句は、「支配者は天命を受けて天下を安んずる道を行い、天だけを相手にするのであるから、その政策の意図を下民が理解しなくとも、気にしない」の意となる。

徂徠によれば、日本国中はすべて将軍の領地であるから、必要なものは遠慮なく取ればよいのであって、そこには恥辱もなければ借りるということもないはずであると。先王の道を断固として行うためには、将軍は自己の権力の絶対性を自覚していなければならないという気持が、徂徠には多分あったのであろう。しかしここで徂徠のいいたかったのはそのことではなく、幕府の財政が個々の武士と同じように旅宿の境界になっているため、このような情ない姿勢をとらねばならないのだ、ということである。すなわち、「恥辱」といい「借りる」というのは、本来ならば金を出して買うべきものと幕府が考えているからであって、それは幕府の財政が商品経済に毒されていることを示す。

公儀ノ御身上モ同ジク旅宿ノ仕掛ケ也。其ノ子細ハ、何モ彼モ皆其ノ物ヲ御買上ゲニテ御用ヲ弁ゼラルヽニ依ツテ、旅宿也。総ジテ和漢トモニ天下ヲ知食サルヽ上ニテハ、御買上ゲト言フ事ハ無キ事也。......物ヲ買フト言フハ、元来人ノ物ナル故、只ハ取ラレヌ故、代リヲ出シテトルコト也。日本国中ハ皆我ガ国ナレバ、何モ彼モ日本国中ヨリ出ヅル者ハ我ガ物ナルヲ、人ノ物ト思召シテ、代リヲ出シテ買ヒ調フルコト、大ナル取リ違ヘ也。(『政談』巻二)

小島毅さんの

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

は、水戸学派、とくに、新論に、帝国日本軍の思想的バックボーンとしての、重要性を指摘してたわけですね。そしてそこに、三島が連続する、と。
そして、彼の解釈の、新論は、日本人は、その、古事記日本書紀にある、使命とは、すでに、世界のあらゆる国々を侵略し、占領して、すべての土地を、天皇の領地、すべての人々を、天皇の奴隷として、バーサーカーのように、侵略し尽すまで、この日本人の、使命が完遂することはないんだ、と。
いずれにしろ、太古の神話の時代から、間を飛ばして、一気に現代とくっつくというのは、典型的な、徂徠の発想なんですね。
徂徠は、軍事学についても、多くの論文があるそうだけど、彼の関心は、基本的にそこですね。吉田松蔭にしても、関心は、戦争論。もともと、江戸時代の役人は武士なんだから、当たり前とも思えるけど。
戦国時代までの戦争は、いわば、武士階級のやることであって、農民などの、一般の大衆には、縁遠いものでしかなかった。
しかし、それは、三国志の時代から、当然のところがある。なぜ戦うのか。それは、動機があるからなんでね。戦いたいから戦うのであって。守りたいものがあるから、ですね。そういう人間関係があるからでしょう(もちろん、戦争に負けて、多くの人が奴隷となり、戦争にかり出されたかもしれないが、しかしそんな奴隷を、能動的に訓練できるものじゃないですよ)。しかし、近代になると、そこがオブラートされる。「同じ民族だから」。しかしね。同じ民族なんていう、訳の分からないカテゴリー、どうやって、庶民に理解させんの?だれが支配者だろうと、自分たちの日々の生活の邪魔をしないでくれれば、だれだっていいのは、当たり前じゃないですか。それを、戦争に負けたら、鬼畜米英に、レイプされて、皆殺しにされるって、マインドコントロールそのものでしょ。そうやって、すりこまれた皇軍が、海外でやったのが、その裏返し。
当たり前だけど、徂徠には、仁斎への一定のリスペクトがあったけど、それもなくなって、たんなるシステムによる、戦争スキルの優等生競争になったら、その支配の正当性なんて、本当に、天皇とアマテラスの関係みたいな、それしかない、みたいになるわけでしょ。実際、明治憲法をつくった、伊藤博文の解釈は、その関係だけで、天皇の正義、無謬性まで、保障されてる、みたいな言い方でしょ。
徂徠が、国民の気質に寛容であったのは、ひとえに、そういう形で、個人に個性があった方が、支配者にとって便利であるからでした。しかしこの発想は、明らかなように、「全国民は、支配者にとって、有用である限りにおいて、存在を許されている」という発想です。ということは、当然、前提として、「全国民は、支配者の戦争の駒でなければならない」んですね。当然、完全徴兵制です。
もっと言えば、おそらく、最も魅力的なのは、「国家総動員体制」なんだと思います。なんとかして、国民「全員」を、「戦力」として使えるようなシステムは実現できないか。なんとか、「社会のすみずみまでが戦争勝利のために行動する」、そういった、オートポイエーシスの体制の実現が目指されたんですね。
もちろん、それは、「非常時」の場合、という条件がある。だから、それなりに、明治、大正、昭和前期は、各個人の自由な行動を許す。それは、まさに、徂徠の考える、個人。しかし、それを許している理由は、いったん、非常時になったら、各個人の、その分野での才能を生かして、貢献すること、という前提がある。
しかし、こういう前提は、そもそも、「非常時」の実現を求める誘惑とならないだろうか。「国家総動員体制」というのは、一切の犠牲を「全て」の国民に求めることができる、そういう体制です。一切の暴力、簒奪、強制が、(理由はなんであれ)許されるというわけです。支配者にとって、これこそ夢の世界ではないのか。支配者のあらゆる、暴力の欲望が「許される」というわけなのだから。
戦争とは、歴史的に、国家間利害の解決のために実行されてきたこと、ですね。別に、軍人になる主体が、国民全員になる必要はない。志願兵で十分、ともいえる。今の自衛隊アメリカ軍もそうですね。しかし、支配者にとって、徴兵制への欲望は、決して止まらない。ひとつの理由は、比較的、安く戦力を集めることができること。
もちろん、こういうことと、旧ソ連時代の、東側陣営の国家社会主義との関係を考えることは、興味深いでしょう。
それほど、人間の他者支配の誘惑の頂点ともいえるような、魅力があるのではないだろうか。
徴兵制というのは、いわば、国民がすべて、一時的に、公務員となる、ことだと思うんですね。全員が役人であるということは、全員が、なんらかの役職を担うということになります。なにか仕事をする。ということは、少なくとも、その人は、その仕事については、「役に立」たなければならない。まあ、カミカゼでも、なんでもいいわけだけど。
韓国は、今でも、徴兵制を維持している。これは、韓国民の気質に大きく影響していると思います。こういった、制度のある国において、本当の個人というのは、ありうるのだろうか。本当に自分の感情のまま生きるような生活を選択できるのだろうか(もちろん、北朝鮮との、長く続いている緊張状態を分かった上、言っているわけです)。
ただ、そのかわりに、韓国は、キリスト教徒がかなりの割合になっている。同じく、中国にも隠れキリシタンが増えているんだそうですね。ニュースステーションでやってた。