福田首相辞任

政治とは、なにをするべきものなのであろうか。一人の政治家に、一体、なにほどのことができるのか。
おそらく、世間的には、ボロクソだろうが、まさに、福田さんらしい、やめかた、ではないか(こういう自分勝手な感じも、彼のいつも、イライラっとした感じも、どこか、自分の兄を思わせて、ちょっと気になる感じはあった)。
自民党は、参議院が、民主党ににぎられている時期が続く限り、順調な政治運営は不可能なのだ。つまり、あと、何年かは、この状況は変わらない。だとしたら、政界再編であるが、これは、民主党の分裂が前提でしょう。つまり、自民党の、これから、何年かの間のやれることは、実に、限られたものであることは、分かりきったことだったのだ。
そんな中で、なぜ、彼はこうやって、人生のたそがれ時に、再度、政治の表舞台に現れたのか。
これから、当分、彼のような、おもしろい総理が、日本に現れることはないだろう。また、凡庸な政治に戻るということだ。
福田さんをもし、国民が理解したなら。そんなことをちょっと思ったりする。そんなことはありえないなと思いながら。ようするに、だれ一人として、福田さんに興味がなかった。こんな福田さんに全国民が興味をもつ、日本がそんな国だったなら。それは相当な国民だろうな、と。
今、物価が上昇し、その日、一日をやりくりすることしか考えられない状況である。そう思いつつ、あえてそんなことを考えるわけだ。
サミットが、彼の父親のケースを思わせ、注目されたが、むしろ、北京オリンピックが、成功しえたのは、彼の存在が、かかせなかったであろう。
総理大臣という役職が、まったく政治的に権力のない地位であることは、自明のことであった。
しかし、政治は、それでいいのだ。しょせん、政治は、少しずつ前進するしかない。進まなければ、退けばいい。絶対に代わりが用意される制度。そして、なにより重要なのは、たとえ凡庸であっても、その地位にはつけるし、それなりにまわる。
この制度。こういう制度によって、この福田さんという、齢70を越えた、まことに興味深い方が、呼び出され、再度、一線を退く。