飯尾潤『日本の統治構造』

今週の、videonews.com での紹介の本。飯尾さんが出演してます。掲題の本は、オビになんかの賞をとっているみたいに書いてあった。
この本では、まず、議員内閣制への評価の問題から、語り始める。
普通、日本は、大統領制じゃないから、総理大臣が、権力がなく、政治が弱いとされているが、それは違う、という。
アメリカの大統領制は、議会との権力の分立のため、思うようにできないが、イギリスの議院内閣制は、逆に、権力は首相に集中している、という。言われてみれば、確かにそうなのだ。
そういえば、日本の政治の体制が、イギリス型になっているのは、なぜなんだろうか。ドイツから、多くの学問をとりいれた印象があるが、政治体制は、イギリスなんだよな。
言われてみれば、確かなのだが、なんだかんだで、ブッシュは、簡単に、イラクを侵略できたところをみると、アメリカの大統領制の分立など、中途半端なんじゃないかな。
逆に、日本が、議院内閣制でありながら、総理の権限がこれほどまで弱いのはなぜなのか。
著者は、それを「官僚内閣制」という言葉で呼ぶ。

閣議までに合意を調達する手続きの一環となっているのが、閣議の前日に開かれる事務次官会議であり、そこで反対がなかった案件だけが、閣議の議題とされる慣行である。それゆえしばしば事務次官会議の存在が、官僚支配の象徴として攻撃される。しかし事務次官会議自体に問題があるのではなく、内閣あるいは閣議というものの性質が誤解されているところに問題があると考えるべきである。物事の根本を変えずに、事務次官会議を廃止しても実体が代わるとは思えない。

いずれにしろ、こんな仕組みになっていることを、どれだけの国民が知っているのだろうか。これじゃあ、どっちが「政府」なのか、さっぱり分からんでしょ。
早い話、なんで、日本の大臣は、総理に反する、役人にすりこまれた、省益を代弁し続けて、総理に罷免されないのか、なんですね。
こうやって考えてくると、日本の官僚の特徴というのが、よく分かってくるんですね。

まず、大きな特徴は人事における官僚の自立性である。つまり、各省庁の官僚は、個別人事に関して、外部からの指示ではなく、自分たちで実質的な決定を行っている。政治家が好みの人物に官職を配分する猟官制を廃止して、公務員に資格試験の合格など一定の資格を要求する資格任用制を採用した現代官僚制では、政治家の人事権は大きな制約を受ける。しかし、官僚側が自分たちの都合で、ほとんどの人事を決める日本の状況は異例である。

これは、普通のことなのか。じゃあ、キャリア制度は。

たとえば、事務官と技官の区別、キャリアとノンキャリアの区別など、国家公務員法にはまったく記載されていない。実際の人事の仕組みもまた、慣行として続けられているだけで、法的に定められたものではない。むしろ国家公務員法が制定されたときの経緯から考えれば、法律の趣旨とはまったくかけ離れた慣行であるということさえできる。

官僚がいかにして、アメリカの占領政策を骨抜きにしてきたかは、いろいろ語られていますね。私は、前に紹介した本ですか、以下について思い出しました。

天皇がわかれば日本がわかる (ちくま新書)

天皇がわかれば日本がわかる (ちくま新書)

この本では、日本の政治が、有史以来、どのように正統性を主張して法体系を作ってきたかを、分かりやすく書いてあります。
上の本で重要だと思ったのは、戦後日本の政治制度が、基本的に今までの日本の政治制度の延長上にあり、そこに西洋民主主義のスパイスをちりばめた程度のマイナーチェンジなんだ、という認識をしていることですね。
よく言われるように、明治政府は、3つのことを実現したんですね。一方で、西洋の議会政治。他方で、江戸時代でさえ中途半端にしか実現しなく、長年の儒家の夢だった、朱子学政治の実現。さらに、天皇を神とする(逆説的に神道は宗教でないと定義することによる)、祭政一致
こんなまったく、共存さえ無理にしか思えない「統合」「アウフヘーベン」を近代の超克と言うんでしたかね。
この中で重要なのが、朱子学政治ですね。官僚は、筆記試験で選抜され、さらに、その試験にとにかく通れば、その後の公務員の役職は保障される(一度でも通れば、もうそんな勉強だれもやらないわけです)。あきらかに、朱子学は、官僚、文官による政治支配の理論体系ですよね。明治以降は、基本、この延長にあるんだとは思う。
そして、もう一つ重要なことは、日本においては、国家と個人の区別が「あいまい」である、ということなのです。

たとえば、税の徴収における源泉徴収である。確実に税を徴収するために源泉徴収制度を備える国は多い。しかし日本の場合、源泉徴収のほかに、複雑な税額計算まで、多くの民間企業が納税者たる従業員あるいは徴収者である税務署の代わりに行っている。年末調整などの制度を使えば、多くの給与所得者は、税務署と関係を持たないまま、納税という重要な行為を終了する。これなどは、企業の経理部門が、政府の役割を一部肩代りしている事例であって、見方を変えれば政府機能が企業のなかにまで入りこんでいるともいえよう。

よく考えれば、なんで企業は、こんな年末調整などという、明らかな国家の仕事の肩代りをさせられているのか。まるで、企業もまた、官僚制度の下部組織みたいではないか。

たとえば西洋流に国家をステート(state)の訳語であると考えると、その国家には一般の民間人は含まれない。国家は支配機構である政府を意味するからである。西洋の政治学では、国家(state)と社会(society)の二分法をもとに議論を展開することが多い。国家には社会は含まれないのである。しかし多くの日本人は、自分を国家の一員だと思っているのではないだろうか。

そうなのである。あまりに、あいまいなのだ。まず、自分たちと国家を「区別」するレトリックを身につけること。
さて、いろいろ書いてきたが、結局のところ、議院内閣制が、かなり強力な権力をもっていることがわかってきた。掲題の著者も、選挙による、正当性の調達によって、法をどんどん通していく実践を説く。しかし、そんな感じであれ、法律がどんどん通る状況というのは、ちょっと警戒感を思わせずにはいない。
それは、最近の、安倍元首相の、あの、議会の3分の2を支配しての、強行採決の連発。私たちは、彼が、明治憲法の復活の実現のために一歩一歩段階をおってやっていたことを知っている。彼は本気で、明治憲法天皇と臣民の政治の復活を目指したのだろう(それは、彼のとりまきにいたメンバーをみれば明らかでしょう)。たんに彼は、参議院選挙に、ボロクソ負けることが、どれだけのことであるかが分かっていなかっただけであり、あのまま、そこそこ選挙に善戦していたら、今でも彼が、総理大臣でいて、あの後も、どんどんトンデモ法を通しまくり、憲法改正の手続きを連発を、実現していたのだ(私は、かなりまともに、あのKYな表情、血走った目を見ると、なんともいえない怖さを感じたもんですけどね。小泉元首相と同じく、尊敬する人を、吉田松蔭って言ってたでしょ。吉田松蔭の最後の死に方を考えると、私なら簡単に尊敬なんて言葉でてこないんですけどね)。
しかし、じゃあ、法が全然通らないような政治でいいのかといえば、それこそ、官僚の思い通りにされてきた、今までの、政治ともいえるし、そのあたりは、それなりに手当てが必要にも思う。
やはり、民主主義は難しい。とにかく、実行するにしても、たっぷり時間をかけて、議論して、やってほしいところはある(そうは言っても、経済対策など、それなりに緊急の手当てが必要なものがあることも分かってはいるんだけど)。

日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)

日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)