ETV特集「手の言葉で生きる」

少し前までは、ろうの子供の学校では、手話を使うことが禁止されていたのだそうだ。相手が話す口の形から、読唇する、そういうトレーニング。
この特集では、教室の会話をすべて、手話で行っている学校の特集だった。小学生、なのだろうか。
とにかく驚くのは、耳の聴こえない子供たちの実に、生き生きとした、姿でした。それは、手話による会話なんですね。手話は、実際に、「言語」の一つとして、実際に使われている、ということ。
親も、手話を身につけ、家の中で、手話による、実に表現豊かな会話、親子の精神のつながりが実現できている。
教室では、日本語の勉強をしていた。日本語の助詞が、手話にはなく、この教える方法がまだ、確立していないので、手探りでやっている、ということであった。日本語を文章で書けることは、自分たちの考えたことを、文字にして、残しておき、後で見返すことで、思いだすといった、記憶の補完にもなるし、文字の重要さに気付くことになる。
実際に、手話のできないが耳の聴こえる一般の人とコミュニケーションをとるとき、手書きの文章が、正確な意志伝達には、重要になる。
しかし、手話の一つの欠点を指摘していた。それは、人工内耳を埋めこみながら、そのトレーニングをやめて、手話に没頭した家族の例だった。人工内耳があったわけだから、じっくりと苦しくてもトレーニングをやれば、それなりには、音でのコミュニケーションができたかもしれない。幼い頃に、身につけないと、なかなか難しいのだそうだ。
しかし、よく考えれば、その年齢のとき、その子供が、親と、濃密なコミュニケーションができる手話という方法がありながら、こういった苦行のような方法を選択できるか、ということになるんですね。
実際に、人工内耳で言葉を認識できるようになったとしても、やはり、普通の人の耳ほどまでの認識能力にはいかないのだろう。それなりの補助的には重要な能力なのだろうが。
だから、むしろその驚くべきことは、手話というこの、驚くべき能力をもった、「言語」の方なんですね。これによって、まったく、互換的に、親子が行うべき、コミュニケーションが実現できたこと、なんですね。こっちの方がどれだけ親子お互いの精神にとって、大きな糧であるか、なのでしょう。
最近でも、NHK教育で、手話の番組があるが、もう何年かすれば、さらに、手話は多くの一般の人たちが、身につけるものになっていくでしょう。どんどん、一般の言葉のコミュニケーションが手話の影響を受けたものになっていく。
番組のつくり方としては、中立的なものだったが、この子供たちが、これから、一般の子供たちと比べても、まったくひけをとらないくらいの能力、たとえば、大学受験で、普通に合格するくらいの点数をとれたとしても、私は少しも驚かない。なぜなら、それくらい、濃密なコミュニケーションを親や先生、友達とできていると思うからである(逆に、そこまで、日本語の、文章や、一般の教科書にそこまで、のめりこむのか、というのはあるのだろうが)。