「オンエアー」

今、テレ東で、朝、8時にやってるドラマ。韓国では、今年、放送されたんじゃないだろうか。
新人監督が、脚本家のソ・ヨンウン、女優のオ・スンア、女優の所属する事務所のチャン社長、彼らと、お互いの、プロ意識としての葛藤を経ながら、テレビドラマを作成していく物語。といっても、11話まできてやっと、一話の読み合わせ。
さて、プロフェッショナルという視点でみたとき、彼女たちは、「わがまま」なのだろうか。
例えば、作品は、彼らのクレジットをされた形で市場に流通する。であるなら、これは彼らの作品とも言えないだろうか。それとも、やはり、「監督の」作品なのだろうか。
よく考えると、一つのドラマの途中で、同じ役を、違う役者が演じることがないのは不思議なことじゃないだろうか(子役と大人役を分けることはあるが)。もちろん、視聴者は不快に思うかもしれないが、そのことと、そうなっていることとは別だ(何話から前は、だれで、後は、だれ、とクレジットすればすむ)。つまり、このことは、最初から、役者ありき、役者が作っている面があるということなのではないか。
また、同じことは、脚本家にも言える。なぜ、同じ脚本家に最後まで書かせ、その人の責任物とさせるのか。何人もかかわって直してもいいだろうし(そういう共同作業はあるかもしれない)、途中から別の人が担当しても監督がゴーをだせば、なんら問題ないでしょう。そもそも、脚本は、表に出てくるものじゃない。なぜ、ブランドのように個人のクレジットとするのか。
このドラマの見どころは、なんといっても、女優のオ・スンア、だろう。
彼女は、相当人気があるという設定。しかし、彼女は、新人の頃から、演技力がないと非難され続け、自らそういうイメージに自覚的な行動をとる。それをまわりは、「わがまま」ととるが、もともと、彼女の人気にたのんで出演してもらっているので、製作者サイドも「彼女に折れる」という形を続けてきた(要するに、使う側も、折込み済み、ということなのだろう)。
しかし、彼女の所属事務所のチャン社長は、彼女に今回のドラマのこの難しい役を演じきり、一歩、成長することを求める。オ・スンアは、自分の自分への評価が強固に確立しているだけに(そういったことは新人の頃にさんざん非難され自覚しているのだ)、どうしても単純に、受け入れられない。何度も複雑に揺れる彼女の心が描かれる。
途中では、彼女は、脚本家のソ・ヨンウンに、酒の勢いで、自分が、こういう性格だけに、友達も少なく、ケータイに友達は、10人も入っていない、ということを打ち明ける。
彼女は、ドラマの中では、大根役者だが、このドラマでは、見事に演じている(といったら、ほめすぎかな)。
昔、柄谷さんが、日本の男の文芸批評家が、日本の女流作家たちの作品を評価するとき、「女という動物」の感性をほめているのであって、作品がどうなのかの批評をしていない、と言ってたのを思い出した。それは、日本が欧米で評価されるとき、浮世絵などの美として評価しているのであって、彼らと同じように、「思考する存在」として、対峙されているわけではない(つまり、オリエンタリズム)、というのと似ている。
よく、日本では、演じるのではなく、その人のそのままを出せばいい、みたいなことを言う。
主人公クラスでは、そもそも、そのキャラクターのイメージに合う、適役を選ぶわけで、演技者は、なにも考えなくていい。その人の(動物としての)感性のまま、ふるまってくれればいいのであって、へたに演技者が奇を衒っての、自己主張なんてされたら、余計なお世話だ、ということ(そんだけの、金やってんだ、と)。
しかし、演技者は、悩む。演じる、ことに。
作品が完成することは、一つの奇跡なのだろう。いわば、常に、事故的に完成するのであって、ドラマや映画は、この多くの作者が、それぞれ表現した、猥雑な芸術なのだ。