キム・タクファン『ファン・ジニ』

私は、中国や韓国・朝鮮に興味があると言っても、別に、好きということではない。どちらかと言えば、魯迅は好きだが、その魯迅が痛烈に批判し続けた、両国の、因習を、好きだなどと言うような趣味は、私にはない。
私は、ときどき、変なことを考える。
どうして、日本は、敗戦時、あれほどの、熱烈な歓迎によって、アメリ進駐軍を迎えたのだろうか。なぜ、アメリカは特別だったのだろう。
もちろん、アメリカは、「隣」の国である。ジョン万次郎の例をあげるまでもなく、長く関係があったと言えなくもない。
しかし、そういうことではなくて、ここには、ある種の相似形、似たもの同士、という面があるのではないだろうか。
よく言われるのは、アメリカは、ヨーロッパのアウトサイダーが作った国、だと。ヨーロッパの因習、を受け入れて生きることを潔しとしなかった、高貴な精神をもった自由人たちが、浅田彰よろしく、「逃走」してきた人たちによって、作られた、国、だと。その精神は、アメリカの文化の隅々に浸透しており、国家の骨格を形勢している。
同じようなことが、実は、日本についても、言えないだろうか。日本は、多くの中国や、韓国・朝鮮の人たちが、彼らの国の、昔から、続いてきた、野蛮な因習に、忍従して生きることを潔しとしなかった、自由人たちが、逃げてきた、そんな人たちが、大きな理想をもって、作られてきた国なのではないだろうか。
朱舜水にしても、明が滅亡し、清朝ができるとき、日本に亡命してくるわけですね。水戸学派は、実際、彼から始まっている。明治以降は、完全に、彼をシカトでしょ。でも当時は、日本中の人が、彼を、尊敬していたわけですね。その痕跡が、そこら中に残っている。そりゃそうですよ。当時の日本みたいな田舎の島国に、なんの前ぶれもなく、いきなり、本場のモノホンの儒者が、やってきたわけですからね。
ニュー・ワールド」という映画がありました。イギリスから、アメリカへ、開拓に行った男が、現地のインディアンの女性と恋に落ちる話でしたね。たいへん、美しい映像の映画でしたが、みょうな感動を与える映画でした。
前にも、書きましたように、江戸時代、豊臣秀吉による、朝鮮出兵への、反省から始まった徳川政治は、明治維新政府のプロパガンダによって、さんざん、封建社会の暗い時代だった、というような宣伝をされ続けて来た。しかし、ほんとうにそうだったのか。かなり、開放的な社会だったのではないか。そういったことを、思うんですね。
もちろん、そんな立派だったとか言いたいわけではなくて、前にも書きましたが、かなり血なま臭い、アナーキーな、下剋上の社会がずっと続いてきていた面は、確かにあるんですが、ということです。
だいぶ、横道にそれましたが、ドラマ「ファン・ジニ」の原作、を読んでみました。結局、キーセンという、まあ、言ってみれば、芸の道を極めながら、他方では、ていのいい高級コールガール、ってことですね。
今でも、アメリカでよく、こういうのが、話題になりますが、金持ちになって、やることといったら、昔も今も、なんにも変わらない。
女を買う。
しょせん、人間ですから、肉の塊を、どうこうする、しか、やることないんでしょうね。
そして、水あげ、ですね。ロスト・ヴァージン、ってやつですか。好きな男の子に捧げるのが、現代だとしたら、このキーセンの世界では、ヤンバン階級の、遊びの一種にまで、洗練されているんですね。最も、高いお金を提示した、ヤンバンが、好きにできる。
野蛮だろうがなんだろうが、最も身分の低い、こういう、売春階級の女たちが、家一件買えるような小金を手にするわけだ。こういう、やたらと金回りのいい、客をつかまえることで、ちょっとのことでは、手にできないような、小金を手にする。この構造ですね。一番の上位の階級社会のヤンバンと、だれからも、さげすまれる、最低の底の階級のキーセンが、酒宴の場を介して、やたらと急接近する。
そういう、変なところで、奇妙な、なにか、立場が、対等になるような、そんな錯覚を、刹那的に起させる場所。それが、こういう水商売の世界なんでしょうね。
いろいろ社会の矛盾や、世界の不合理のことなどを、考えさせる場所なのかもしれません。まさに、椎名林檎の「歌舞伎町の女王」を地で行くような、そんな感じでしょうか。前に、「ドックヴィル」という映画を紹介したが、あの映画では、ニコール・キッドマンは、村の男たちに、つぎつぎと、まわされる、性の奴隷に最後の方でなるが、朝鮮社会では、これが、実に、洗練された、階級的な、スタティックな状態で、制度化されていた、ということだ。
じゃあ、同じキーセンでないヤンバンの妻にしてみても、別に、キーセン遊びを、ヤンバンの夫にやめさせるはずもない。キーセン遊びは芸の分かる大人のたしなみなのであって、やらない男こそヤボってわけだ。いわば、同じ穴のムジナ。女遊びも、限度の範囲であれば、社会的な名声に傷をつけないレベルでやってくれ、というわけだ。まあ、日本の歌舞伎の梨園も、そんな雰囲気ですな。

40は越えていたでしょうか。ひげを胸まで垂らした男がのそのそと立ち上がると、わたしの頭に手をのせました。残りの両班たちも、それぞれ気に入った童妓の頭に手をのせ、初夜の権利を得ました。

男の手が乱暴に胸をいじったかと思うと、わたしを後ろに押し倒しました。しばらくして、男はいびきをかいて寝始め、わたしは彼が飲み残した杯をひっくり返しました。

従順を装っているうちに自分はしだいに虫けらになってしまうのではないか、そんな不吉な予感がしました。

でも、私が望んだのはたまに手に入る余裕ではなく、完全な自由でした。当時はこの運命にぼんやりと気づいただけでしたが、権力や慣習に自分から頭を下げて近づいてはならない、ということを悟り始めたのです。自分の意志のまま推し進めていく人生が始まったのです。
むちで叩かれても、犁舌獄に落とされたとしても、思ったことは口に出そうと心ぬ決めました。口をつぐんでいては、わたしという存在はそれこそ慰みものにすぎませんから。青い松の下にいそいそとござを敷いて、夜明けの鐘が鳴るまで愛を交わしたいという願望より、少なくとも気持ちのやりとりができる人間にならなくては、という負けん気が生じました。

じゃあ、ひるがえって、ユートピア社会の、現代、こういった蛮行がなくなったのか。しかし、こういう問題設定こそ、うさんくさくないですかね。恋愛結婚などど言って、小金をもつ、将来の安定した男にしか、興味をもたない女たち。むしろ、現代こそ、「全ての」女たちの方が、自らの生涯にわたる小金を守るために、こういった妓生のような制度を求めているわけだ。これが現代の、「生命の尊重」の実体でしょう。別に、最初から、なにかが変わったわけでも、進歩してるわけでもない。
しかし、これも含めて、ニーチェ主義、だとでも言うんでしょうかね。
70年代の、ウーマン・リブ、などの活動は、どうなったんでしょうかね。健忘症というより、痴呆症じゃないですかね。
ドラマの方で、チニが、今後、どうなるのかは知りませんけど、小説の方では、彼女は、さらに、コムンゴと詩吟の日々の果てに、人間の本質、社会の真相を、探究するような、生き方を選んでいく。
もしかしたら、今までの、NHKのドラマにもないような、一線を越えた、人間のさらに奥深い問題を探究するような、ドラマになっていくのかもしれませんが、多分、全然そうならない、原作を打ち壊す内容なんでしょうね。
全然、関係ないですけど、コムンゴ、ちょっとびっくりしませんでしたか。あれっ、全然、音出ねーじゃん。

胴の上に絹糸をよった6本の絃をかけ、スルテという撥で弦をはじく。音色は荘重で深みがあり、古来よりソンビたちの間で尊ばれてきた。

このコムンゴを聞くだけでも、一見の価値あると思いますけどね。
ハ・ジウォン演じる、ファン・ジニが、このパサパサの音しか出ない、コムンゴをかついで、色欲に気狂った特権階級の男たちの前にのりこみ、愚蔑するように見下げ、後には、たっぷりと侮蔑の皮肉をまじえた詩を残していく。これだけでも、このドラマ、一見の価値がないですかね。ほめすぎでしょうかね。

ファン・ジニ (1) (ハヤカワ文庫 NV キ 11-1)

ファン・ジニ (1) (ハヤカワ文庫 NV キ 11-1)