椎名林檎「アイデンティティ」

この曲については、二つ、言いたいことがある。
一つは、スクリーミング、についてである。最初に、10秒くらいか、(「ヘルプ」という、ささやくような声の間に)コンピュータ処理された、彼女のスクリーミングが流れる。女性の叫び声、金切り声。最近では、映画の中ででもないと聞けない音だ(最初のアルバムでも、同じような、スクリーミング、がありましたね)。
どうも、この声が、ずっと、ずっと、ずっと、頭から離れない。
映画の場合は、その場面設定があるので、安心できるのだが、こういう商業ベースのものにこういうのを入れるというのは、言わば、世界中の人に向けての、メッセージになるわけで、ある種、野蛮な行為だ。
ただ、いろんなことを、考えさせられた。
ちょっと長くなるが、いろいろ書いてみる。
エリック・ホッファーのエッセーの中に、ずいぶんと奇妙な話に、やたら関心しているところがある。

1879年、スペインのアマチュア考古学マルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵と幼い娘のマリアが、アルタミア洞窟で、野牛その他の動物を描いた驚嘆すべき壁画を発見した。侯爵は当時48歳、痩せた無口な人で、さほど独創性はなかったが功名心の旺盛な人であった。壁画の本当の発見者はマリアであった。侯爵は、当時の考古学者の例にならって、石器や骨針や加工されたマンモスの骨片などを発見すべく、洞窟の入口付近を掘り返していた。12歳であったマリアは、カンテラを手に侯爵の手元を照らしていたが、そのうち洞窟の奥へ入りこみ、カンテラを高くかかげて振り回していると、天井で疾駆している野牛の群が突然目に入り、「トロス(雄牛),トロス」と叫んだ。

ところが、サウトゥオラの学会への発表は信憑性を疑われて認められることなく、失意のまま、彼は57歳で亡くなる(その後、15年して、認められるのだが)。

専門家たちは実際ああする外なかった。15000〜30000年前の未開の旧石器時代人によって描かれたと想定されるこの壁画には、未開さ、粗略さ、不器用さが見られない。この壁画は傑作であり、先史時代芸術としては現代人の感覚との親近性がずばぬけている。さらにその色彩----深紅色と濃黒色----は鮮明かつ新鮮で、カンテラの光に映えると濡れているかのように感じられた。したがって、この壁画は現存の画家----おそらく侯爵おかかえのフランス人画家----の手になる作品ではないかと疑惑が生じても無理なかったのである。

30000年!!!!!
おい、なんだよ、この数字。ケタ、間違えていないか。
そうなのである。人間は、ほんとに、ほんとに、ほんとに、長い間、狩猟生活をしていたのだ。それが、本当の、人間の姿だったのだ。
ちょっと、たちどまって、考えてみないか。つい最近に始めた、さまざまな社会制度を、まるで、人間の宿命のように忍従する前に、もっともっと、はるか昔から、人間がどんな存在であったのか、ということを。
たとえば、上記の、スクリーミングにしても、そうです。おそらく、女性たちが、なんらかの外敵に襲われて、近くで狩をしている男たちを呼び戻すのに、有効だったのではないだろうか。女性だって、それくらいの、時間かせぎができないほど、弱かったわけないですから(それそろ、太古の昔の人類を野蛮でただの暗黒の時代だったみたいに思うのやめませんか。そんな絶望的な人類だったら、みんな自ら自殺を選んで、滅んでいたでしょう)。
たとえば、私たちに、あまりに身近な、「つい最近」の、江戸時代の日本について、こんな記録があります。

「親たちはその幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」
「親は子供の面倒をよく見るが、自由に遊ばせ、子供がどんなにヤンチャでも、叱ったり懲らしめたりしない。その程度はほとんど溺愛に達しており、彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない」
と書いたのは安政年間に長崎に滞在したカッテンディーケでした。
ちょっと後の時代ですが明治20年頃の東京に滞在したメアリ・フレイザー夫人は次のように言っています。
「(日本の子供たちは)怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく」「彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供は決しておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです」

江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵

江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵

「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本では滅多にそういうことは行われない。ただ言葉によって譴責されるだけである」と書いたのはフロイスですが、それは日本の子供たちが、
「世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如くものはない」というモースの観察の裏返しでもあります。

江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵

江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵

宮台さんは、日本の「田吾作」侮蔑史観、エリート礼賛史観、から、日本人の、子育てについて、嘲笑的に、ばかにしたことを言っていたことがあります。それは、子供向け番組が、欧米のものは、どこか「大人になるための作法を示唆する」ような内容であるのに(セサミストリートとかをイメージしてるのでしょう)、日本のものは、わがまま放題の、まったく、野蛮な醜態だ、というような内容でした。
しかし、そうでしょうか。ルソー「エミール」のような、子供調教史観、は、そんなに立派ですかね。
子供に必要なものなんて、まわりの大人からの、たっぷりの愛情、それ以外に何がいるというのでしょうか。子供だって、ばかじゃないでしょう。たとえやりすぎがあったとしても、その大人の気持ちを、ありがたく思うはずです。日本人は、なにも変わる必要なんてない。今までやってきたことを、これからも続けていけばいいんだ。こんな幼稚な学者のお説教なんて忘れて、ちょっと自信もちませんか。
ずいぶん、どうでもいい話が長くなってしまいました。やっと次ですが、簡単にやめます。

何処に行けば良いのですか
君を信じて良いのですか
愛してくれるのですか
あたしは誰なのですか
怖くて仕方が無いだけなのに...

この、「愛してくれるのですか」の後に、間髪を入れずに、「あたしは誰なのですか」。これがなにか、
愛してくれるのですか=あたしは誰なのですか
のように聞こえて、不思議な感覚の質問に思える。
私は誰、という質問は奇妙である。なぜなら、問うている側には、問うまでもなく自明であるから。しかし、自分が相手に受け入れられているということを、自らに受け入れさせようとするとき、とたんに、ある「奇妙な」不安に襲われる。こういうふうに、他者の承認の対象であると自分を考えることは、そんなに自然な思考活動から、生まれない(あんまり現象学的でない)どこか、超越的な作業なのだろう(どこか、ヒュームの狂気を思わせますね)。

勝訴ストリップ

勝訴ストリップ