椎名林檎「メロウ」

やはり、この曲にふれないわけにはいかないんじゃないかな。
歌詞に、ナイフという言葉があるだけに、いろめきたった。トリガーとなる危うさを感じさせたからだろう。
フロイトは晩年、人間に対する自らの理論を、全否定して、新たな理論を提唱した(ほんとに、「全部」、捨てたのだ。一体、そんなことができる科学者がどれだけいるでしょうね)。それが、欲動理論らしい(柄谷さんの受け売りですが)。その認識は、第一次大戦で、戦争後遺症を、目の当たりにしたことが、彼に、その態度を、強いたのだ、ということだった。
カントの永遠平和が、人間の非社交的社交性(つまり、暴力性)から、要請されていることは、有名な話だ。彼は、自らが、世界共和国、の理念を提唱したときにすでに、この理念が、第一次第二次大戦の、悲惨な暴力を引き起すことと表裏のものであることを、予言していたのだろう。
人間が暴力的な存在であるというのは、むしろ、この現代を席巻している、経済学(マネタリズム)の前提である。我々は、暴力による収奪に「挫折」したから、交換を行う。
我々は、むしろ、そういう自らの本性から、目をそらし、自らの「やって」いることを、無意識に抑圧することで、日々の日常を生きている。そういう意味では、普通のサラリーマンほど暴力的な存在はいない、ということになる。
桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』は、三世代の物語になっている。その中で、最も「愛すべき」存在が、(前回はフィーチャーしなかったが)毛毬、である。
この三人は、見事に、歴史に対応するかたちで描かれている。万葉が、神話的存在(ギリシア神話の登場人物)なら、毛毬は、英雄的存在(ホメロスイリアス)、そして、瞳子は、まさに「現代」だ。
しかし、この対応は、もう一つの陰画となっている。それは、世代の問題(つまり、学校の風景)。万葉が、戦後すぐから、全共闘などの、社会正義を夢見る世代になるなら、毛毬は、積み木くずしなどが話題になった、校内暴力、不良、から、その流行が終わりかけ、次にやがて来たる悲しいイジメの、個がその自らの中に抑圧されていたものを個的に表出してきた時代。そして、瞳子こそ、現代、つまり、ナイフの時代だ。
桜庭一樹も含めて)私たちの世代は、毛毬、と言えるだろう。椎名林檎も、どっちかと言うとそうですね。彼女の、やっていることは、基本的に、一昔前の、芸術の延長でやってる。
では、その、「ナイフ世代」、とは、どんな世代なのだろうか。
毛毬は、英雄の名に恥じぬくらいの、地元の女性のヤンキーのリーダーとなり、その地方一帯を制圧していく。彼女には、多くの彼女をリスペクトするヤンキーたちを「弟子」とするようなヘッドの存在へと登りつめていく。
しかし、そもそも、彼女の行動規範、モチベーションとなっていたものがなんなのか。それは、(読まれた人には自明だが)圧倒的に、穂積蝶子であろう。

チョーコを後ろに乗っけてバイクを走らせ二人はだんだんの坂道を駆け下りていった。
「楽しいね、毛毬ちゃん」
「そうか」
「うん」
ぴったりと背中にくっついて笑い声を上げるチョーコに、毛毬もられて、すこし笑った。
「いまが、楽しければ、明日死んだって、わたし、かまやしないよ。だって、青春なんだもん」
穂積蝶子は、学校では優等生として鳴らし、男どもにはかわいこちゃんで通し、放課後や夏休みはこうして、暴走族のマスコットとして交通違反のスピードで夜の国道を駆け抜けていた。要領がよくて、そのくせ刹那的で、図太く百まで生きそうな、しかし意外ところっと死んでしまいそうな、不思議な少女であった。
毛毬はチョーコを乗せて、紅緑村を駆け抜けた。
「楽しいね、毛毬ちゃん」
「チョーコといっしょだからだヨ」
「またそんな、殺し文句」

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説

穂積蝶子には、どこか、このナイフ世代を思わせるような印象がある。
上記の引用の二人の言葉のすれ違いに注意してほしい。
毛毬、は、チョーコの一言一言をマジ(本気)で受け入れている。そうだから、何よりも変えがたく、うれしい、のだ。
他方、チョーコは、...。なんなのだろう。そう簡単に、「楽しい」とか「青春」とか、そういう言葉は、普通の人は、普通の感情の時は、出ないものだ。ヘーゲルではないが、そういうものは、「老年」の思考であり、晩年、自らの人生の醜かったことを忘却し、美しく糊塗する過程で、必要とされるものにすぎない。
ナイフ世代とは、すべてのオーダーメードが用意された、世代だと言えるのではないだろうか。
現代は、このインターネットの普及とともに、あらゆる「答え」が用意されてしまった。
「人間とはこういうものなんですよ。」「子供はこういう存在なんです。」
「そうなんだ。人間とはこういうものなんだ。」「そっか。子供ってのは、こういうふうにするようにできてるんだから、こうやっていれば、幸せだ。」
本来、性根の素直な、ナイフ世代の子供たちは、あらゆる答えの海にさらされ、その出自を問うことなく、受け入れ続ける。
もう、自らが、自力で、開拓なければならないフロンティアはない。
悩みが「ない」。
あらゆる情報は、ネットを介し、データベース化され、だれもが、アクセスできるようになり、世界の果てまで行かないと、知ることのできない情報のなくなった時代。
悩みがないはずなのに、この時代を生きる子供の表情は暗い。
「なにをやってるんだろう」。
彼らは、これだけ、なにもかもがあるのに、自らの心の中からわきあがるある暗い衝動にとまどい続ける。
そこには、憎しみもない、怒りもない(そういうものは、前時代の遺影なのだ)。ある日、なにげなく、便利かな、と思ってポッケの中に入れていた、ナイフを、なにげなく、ぼーとしてた天気のいいある日。
...。
泣き叫びながら、振り回し、突き回していた、自分の姿、に気付く。それが、怒りだったのかどうなのかも、理解することなく。

絶頂集

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