戸塚啓『マリーシア』

最近は、サッカーとは、なにか、戦術やフォーメーション(3ー4ー2 だかなんだか、そういうやつですね)について語ることが多い。だが、それは、本当なのか、と著者は問う。
日本のサッカーは、たしかに、サッカー人口も増え、子供にも定着してきて、文化として広がってきている。しかし、いま一歩、一つ上のステージに上がれないでいる、と考えられている。この違いはなんなのか、と問う。
これは、よく、「ゴール前の、決定力が、...」、ということで言われる。しかし、ことのほか、ほかの国々と比べて、そこだけ、とりだすような議論は、不自然であろう。なぜなら、ゴール前こそ、一番の危険ゾーンなのであり、まったく、自由に行動させない「ため」の場所なのだから。
著者はむしろ、この、「マリーシア」という言葉に象徴される、もっと、根元的な、人間の作法のようなものにこそ、日本人のサッカーの、物足りなさを見出す。
しかしそれは、著者の実感というより、日本に来て、プロサッカー選手として働いている、例えば、ブラジル人たちの、話すことが、そればかり、ということなのだ。それしか言わない、のだ。
これだけ、言われてきながら、今だに、その指摘とは、一体「何を言っているのか」が、日本人には、うまく、概念化ができていない。
普通、日本で、マリーシアと考えられているのは、隠れて反則をするような、そういうずる賢さ、のように考えられる。
たしかに、そういう面はある。これを否定することは、無意味であろう。しかし、我々の日常において、そんなことを言っている場合か。お前は、生きていかないといけないんだぜ。明日の糧食にありつけずして、天命のまっとうなんて、夢のまた夢じゃないか。
ようするに、日本人にとって、サッカーは、現実では「ない」のだ。なにかの、気ばらしであり、高等遊具のようなもの、ということなのだ。
やはり、東アジアは、あらゆることが、儒教朱子学)の伝統の延長にあるんですね。朱子学において、学ぶとは、並大抵のことじゃないんですね。一つの段階を徹底的に極めないと、次のステージに上がれない。いや、上がれないだけじゃなく、その極める目標が、半端じゃない。99パーセントできたんだから、もう、いいだろう、じゃない。限りなく、100を目指す。もうこれ以上ない、というところまで、やんないと、認めない。次のステップに上がれない。聖人なんて夢のまた夢だ。日本の、義務教育システムには、今だに、完全にこれでやってるでしょう。
確かに、こういう面ってある。どんどんうまくなっていくと、楽しいし、いろいろな関係も分かってくる。極める、ということが実感されてくるんですね。そこから、指導者や先達へのリスペクトが生まれてくる。
私、実は、こーゆーの好きなんですよねー。エピクロス主義者でありながら、こういう、東アジア的マゾヒズム。いーじゃないですか。これこそ、芸の道だ。私は逆に、この「やがて悲しき」日本サッカーが大好きだ。彼らが、ばか正直に、道を追求し、先進国の前で、気後れし、緊張し、実力を発揮できず、敗れ去ってきた、敗北の歴史は、むしろ、サッカー先進国へのリスペクトを感じ、好ましいのだ(オシムは、そういう日本が好きだったのだろう)。
しかし、ですねー。サッカー。そんな、美しい世界じゃない。サッカー先進国。やってることは、手練手管の、反則コーイばっか。たいしたことねーんだ。ソンケーに値せず。
しかし、ですねー。そんなこと、なんのカンケーあんの。
こと、今ここを生きる、ということを考えたとき、そのような、道の追求は、ベストだろーか。
今、メシを食わなかったら、お前は、飢えて死ぬんですよ。カスミでも食って空想の中で生きますか(すでに死んでますが)。

彼(ジーコ)が日本代表を率いていた当時、練習後にスタッフがミニゲームをすることがあった。ジーコと実兄エデゥーらのブラジル人と日本人スタッフが対戦するのだが、これがなかなか終わらない。「先に5点取ったほうが勝ち」というルールで始まったのに、日本人スタッフが先に5点を取ると「あと2点」となり、それでもダメなら「じゃあ10点まで」となるのだ。

みんな勘違いしているのだ。試合が始まる前から、試合は始まっているだけじゃない。試合が終わった時には、試合は「始まって」いる。
負けたー。
こっからが、勝負だ!
わかったか。
子供は生まれた、その時から、「大人」、なんだよ。

マリーシア (光文社新書)

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