高祖岩三郎『新しいアナキズムの系譜学』

アナキズムが、長く、政治の一つの勢力、であったことは確かである。
しかし、その、アナキズムは、たんにそうなのではない。アナキズムの主張には、たんなる、政治的な立場の表明にとどまらない、もっと、ある意味、文学的と言ってもいいような、認識を求められているところがある。
早い話、アナキズムが、どんなに、リバタリアン的なものとか、直接民主主義、だとか、必要なものを必要なところに、みたいなことを政治的に言おうとも、それは、どちらかと言うと、枝葉の議論に思えなくない。
アナキズムには、もっと、その人間個人の、言わば、文学的な、個人の体験や、個人的な経験から来る、認識、思想の形成、と、どうしても切って考えられないところがあるのではないだろうか。
つまり、むしろ、まったく、政治と関係ないところにこそ、アナキズムの、なにか、根源的な源泉を想像しないではいられない。
たとえば、ウィリアム・フォークナー、の文学、には、そういうことを想像させるものはないだろうか(言い古された言葉ですが、「意識の流れ」、ですね)。
一般に、政治と言われている、ある種、集団内の、合意形成を目指す、どこか一般的な、抽象的な、議論が、当然、存在している。
それに対して、決して、そういうものでは、到達できないような、もっと、各人間個人が、この成長していく中での、ヘーゲル的な、自己展開、その、閉じた、その個人の中にある、小宇宙が、ほとんど「無関係」に近い形で存在している。
私は、むしろ、アナキズムとは、この後者の、人間の思考を、「代表」していこう、というような、ムーブメントなんじゃないか、そんなふうに思わずにいられない。
政治が、なんらかの階級を「代表」するシステムであるなら、このアナキズムの運動が、どういった今後の展開となるのかは、そういう意味では、どこか、人間のこの、論理、文法、といった、言語活動、がどこまでのことをやれるのかの、カント的な意味での、臨界を確定するものがあるのだろうか。
例えば、フランスの、アナキスト活動家、エリゼ・ルクリュ、に注目する。

1860年代後半頃、マルクスは「資本論」(第一巻)の仏訳者としてルクリュを望み、ルクリュもその企画に期待していた。だがフランスの読者向けの短縮、改訂案をめぐって決裂した。

ルクリュの、「普遍地理学」。
資本主義的な運動が、あらゆる、地球上の「囲い込み」、原始的蓄積、そして、「領土化」を、目指すものなら(国家とは、しょせん、この資本の運動の、ひとつの、登場人物にすぎない)、それに対抗する、アナキズムが、この地球上の、水、空気、土、その、決して、分断できないが、なにより、必須なものに注目することは、当然なのだろう(ドゥルーズガタリ)。
さらに、著者は、アメリカの、南北戦争、から続く、奴隷解放運動、有色人種差別反対運動、一般的には、「労働運動」、ですね、こういったものに、注目していく。

彼らの文化生産のもう一つは、政治的マンガやイラストである。「ブルジョアとプロレタリアの社会的関係と闘争」、「サンディカリズムか議会主義か?」、「反戦」などいくつものテーマ系に分類される。彼らが創出した象徴の中には、有名な「黒猫」がある。黒猫は常にアナキズムの紋章だったが、ウォブリーズや生産妨害(サボタージュ)など戦術的形象にした。黒い野良猫が、恰幅のいい経営者を悩ませる優柔不断な存在として描かれる多くの作品が作られている。

BUMP・OF・CHICKEN、に、「K」という、私の好きな歌、があるが、彼らは、黒猫、こそ、この、(マルクスの頃から始まっていると言っていい、)アナキズム運動、の象徴でずっとあったことなんて、知らないのだろうね。
著者は、アナキズム運動の長い歴史において、組織論、家族論、都市論、革命論、暴力論、英雄論、など、さまざまな、アポリアについて語りはする(それについては、本書を読まれるといい)。
しかし、どうなのだろう。
著者は、あとがきで、この本が、2008年の、日本での、反G8集会、に集まった多くの、海外の活動家、に刺激されたものであることを強調する。
著者は、最後で、以下のように、まとめる。

これまでで充分明らかになっただろうが、「新しいアナキズム」とは特定の思想のことではない。主義のことではない。運動のことではない。それは世界中に出現した無数の「反権威主義的世界変革運動」が共有しつつあるエートス、理論、姿勢、課題、そして時代認識である。それに関して固定化されているのは、その単純明快な「基本原理」のみである。つまり「新しいアナキズム」とは、結局、更新し続ける「アナキズム」のことなのである。エマ・ゴールドマンが言ったように、アナキズムは、あまりにも生と人性に近いので、この世から消え去ることは決してないだろう。

たとえば、今、ほとんどの世界で、子供たちに「義務」付けられて、実施されている、義務教育、というのは、「なんのため」に行われているのだろうか。
なぜ、子供たちは、同じ世代で、一つの教室に、大人になるまで、おしこめられているのだろうか。
もちろん、普通の答えは、一般教養を、身につけさせる、システム、ということなのだろう。しかし、そうだとしたら、それは、あまりに、「身体的」すぎないだろうか。
べつに、学校に毎日行かなくたって、仕事をしながらだって、もしかしたら、やれるのかもしれないし、いろいろな形がありうるのではないだろうか。もしそれが、仕事をしながらでもできるものであるなら、別に、その「子供時代」を過ぎた人でも、そのサービスを享受できるのだろう。
私が変にこだわっているところは、その、「身体性」なんですね。その、学校体験、を、まるで、当たり前、アプリオリな、与件のようなものとして、思考していく。
たとえば、著者は、以下のような部分に注目します。

この諸関係についてより妥当なのは、グレーバーが言う「高理論(high theory)」に対する「低理論(low theory)」の可能性ではないか? 「高理論」とは、この世で最も強力な「主義」構築のために、巨大で堅固な建築と化した理論である。それは己を管理することにかまけて、「闘争」と「運動」への視点を喪失している。それに対して「低理論」とは、「闘争」と「運動」の生き死について感受性豊かな(センシティブ)理論のことである。それが重視するのは、一貫した体系を構築することよりも「闘争」と「運動」の為に、矛盾し合う諸体系を臨機応変に使い分ける方途なのだ。

その共通感覚が前提とされた、インテリたちの、「団結」や「連帯」のイメージ。しかし、むしろ、そういうものから、最初から排除されているものがあるんじゃないか。
その、もれる存在。

新しいアナキズムの系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)

新しいアナキズムの系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)