「チェンジリング」

やっと、映画館に行けました。毎日、日曜は、一日、疲れて寝ていたので。
1920年代の、ニューヨーク市警察、の腐敗、を一方で描いているのだが、この問題は、解決されたのだろうか。いや、おおっぴらに、このような、ことはやりづらくなっているだろうが、むしろ、その腐敗の手口はより巧妙になっている、とは言えるのだろう。今の日本官僚組織だって、同じような行動原理じゃないのか。
こういうことを考えると、リバタリアンの言う、警察の市場化、というのは、なんらかの形で、必要なようにも思えてくる。
この映画では、ニューヨーク市警の腐敗、に対抗して現れる勢力が、キリスト教団体。彼らが、市警の腐敗、を監視していく、現在のNGOのような存在として、あらわれる。
どうでしょうか。なんか、柄谷さんの言う、世界宗教、のカウンターパートとしての勢力の、存在を感じましたね(NGOのルーツですよね)。逆に、日本でこれだけ、キリスト教の勢力が弱いことに、なにか、足りない、といいますか、「去勢」された、なにかを感じなくはないんですね。江戸時代までに、キリスト教が徹底して弾圧され、タブーとなっている。よく、日本のこの単一民族性が言われるが、むしろ、そうじゃないでしょう。この国の中では、各民族が、彼らのアイデンティティを保存しながら生きていけないのでしょう。隠れキリシタンとしてしか、生きられないんです。
キリスト教を「去勢」されたこの日本社会には、なにかが、欠落している。その野蛮さ、なんですね。ここにこそ、おそらく、世界の中でも、特徴的な、日本人の傾向性(野蛮さ)の原因を指摘できるのでしょう。
なんと言っても、主演女優の、アンジェリーナ・ジョリー、ですか。よかったですね。彼女の「最後の最後まで」ぶれない態度は、アメリカ的な、強い論理性、意志、を感じました。
しかし、監督、クリント・イーストウッドが、描き、示唆しようとしたものは、20人もの子供を、監禁し、殺していった、殺人犯、のこの世紀の残虐事件。フラッシュ・バック的に、その子供たちを、斧で殺す場面が描かれるが、その示唆するもの、なんですね。
そこに示唆された、子供、の世界。
こうやって、亡くなっていった、子供の側が見ていた、この「世界」から、目をそらすことは、許されない。子供は、この「世界」で、最後の最後の一瞬まで、決して、あきらめずに、戦いきる。子供は、そういう存在として、この世に生を受けたのだ。