(再読)神野志隆光『古事記と日本書紀』

この本は、以前、紹介したものだが、再度、読み直してみた。
この内容って、相当、すごいことを書いてないですか?
本当に、多くの人に、熟読してほしい。
どうしてか。
よく考えてみてほしいんですね。聖書は、多くの国で、多くの人に読まれている。じゃあ、なぜ、古事記日本書紀、を日本人は、「読ま」ないんでしょうか。
もちろん、読まない、と書くと、違和感を覚えられる人もいるだろう。日本人なら、だれだって、日本神話、を知ってるじゃないか。しかしね。お話として知っているだけで、だーれも、古事記日本書紀、をテキストとして読もうとなんてしてないでしょ。これってなに?
やっぱり、聖書、特に、新約聖書、は、おもしろすぎるんですよね。前に紹介した本で、古代ギリシア、の犬儒派、や、ストア派、とのつながりを示唆したものがあったけど、まさに、犬儒派、や、ストア派、につながるような、おもしろさが、新約聖書、にはありますよね。
日本、においては、そこの位置付け、にあったものは、そもそもの最初から、間違いなく、「論語」、だった、ということなんでしょうね。
そうやって考えていっただけでも、どうも、古事記日本書紀、というのは、宗教書とは違うもの、なんですね(つまり、民衆を鼓舞するものじゃなく、中国の、歴史書の、伝統、を踏襲するもの。つまり、あくまで、権力を正統化するための、家系図的な延長なんですね。天皇家、の私的な、内容であって、民衆には、直接は、なんの関係のないもの)。
著者によれば、これらの、天皇、の起源神話、には、3つ、あって、それぞれ、「全体として」違った、思想に基いて、統一されている、という。
もちろん、二つは、古事記、と、日本書紀。もう一つは、以前も紹介した、万葉集にある、柿本人麻呂、の歌。
特に、三つめ、というのは、非常に重要だ。
ここから分かることは、天武天皇、こそ、むしろ、天皇制の起源、と見なすべき、ということなんですね。おそらく、彼こそ、クーデター、によって、後の律令体制につながるような、革命、を成功させた。つまり、ここから、天皇が始まったのでしょう(これを匂わす記述が、なんと、日本書紀、に、実際、普通に「書いて」あるんですね。そのことについては、前回書きました)。
天孫降臨、したのは、天武天皇、だとある。これって、私流の、憶測たっぷりで解釈すると、天武天皇は、この土地の人で「ない」、つまり、中国、朝鮮からの、渡来人、ってことに読めるんですけどね(まあ、天から降って来たってわけだ)。
万葉集、のこの個所から、今度、古事記日本書紀、を俯瞰してみるんですけど、この二つも、根本的な、思想のところが、まったく違っている、ということなんですよね。
古事記は、一言で言うと、天照大神、こそ、もっとも重要な、神、である。そして、天皇家は、その、天照大神、の子孫、になっている。「だから」、かれらが、日本を支配していることは、正統、なんだ、という構成になっている。

古事記では「天照大御神」と、一貫して「大御神」と特別な尊称で呼ばれる。「天照」はアマ(天)・テラス(照る+尊敬のス)で、天に照り輝きたまうような、という称辞であり、その名は全体が称辞から成る。

つまりこの、天照大神、によって、天皇家、は、無類に重要な存在である、ということを、系譜上、「証明」するためのものなんですね。
だから、古事記においては、天皇家が、日本を支配することは、それ以外の可能性はありえない、という位の意味で、「正統」ということなんですね。
あと、何度も書かれていますけど、両方とも、人間がどうやって生まれたか、については、書いてないんですね。日本の島がどうやってできたかは詳しく書いてあるけど。だからずっと、天皇にしか、興味のない本なんですね。大衆と関係ないんです。
では、日本書紀、はどうなっているんでしょうか。
これが、全然、違うんですね。
もちろん、陰陽思想によって、完全に統一されている、日本書紀、は、この一点だけでも、まったく、整理ポイントが違っている。
まず、アマテラスが、まったく、こちらでは、重要な位置にないんですね。天孫降臨にも、ほぼ関わらないですし。

要するに、日本書紀のアマテラスは、日神としてイザナキ・イザナミの生成した世界秩序を構成するにとどまる。そもそも、その登場において、

是に、共に日の神を生みまつります。大日霊女貴と号す。(分注省略。一書に天照大神というとある)此の子、光輝明彩しくして、六合の内に照り徹る。
そこで、二神は一緒に日神を生まれた。名を大日霊女貴という。この子は輝くこと明るく美しく天地四方に照り通った。

とある。はっきり「日の神」と規定されるのである。天照大神という名は一書にそうあると分注に示され、第六段以後その名で語られるが、最初に日神として登場するのは重要である。

古事記にとっては、ほかに並ぶもののなく、光り輝いている神、と言っているのに(天皇は、そういう最上級の神の子孫)、こっちでは、ただの、「日の神」(天皇との、関係もほぼない)。違いが、すごすぎますね。そしてこのことは、こんなもんじゃとどまらないんですね。ここで、非常に重要な認識が語られる。

ニニギが求婚したカシツヒメは、誰の子かという問いに、

妾は是、天神の、大山祇神を娶きて、生ましめたる児なり。
わたしは、天神が、大山祇神を娶って生ませた子です。

と答える。また、巻三、神武天皇の巻において、ニニギとは別に天から降ったニギハヤヒがあらわれる。この神は、ナガスネビコの妹と結婚するが、ナガスネビコは神武天皇に抵抗してこういう。

嘗、天神の子有しまして、天磐船に乗りて、天より降り止でませり。号けて櫛玉饒速日命と日す。是吾が妹三炊屋媛を娶りて、遂に児息有り。名をば可美真手命と日す。故、吾、饒速日命を以て、君として奉へまつる。夫れ天神の子、豈両種有さむや。奈何ぞ更に天神の子と称りて、人の地を奪はむ。吾心に推るに、未必為信ならむ。
昔、天神の子がいらっしゃって、天の磐船に乗って天から降ってこられました。名は櫛玉饒速日命と申します。この神がわが妹三炊屋媛を娶って、子が生まれました。名を可美真手命と申します。そこで、わたしは櫛玉饒速日命を君いてお仕えしているのです。いったい天神の子というものは、どうして二柱おられるのでしょうか。それなのにどうして、天神の子と名乗って、人の国を奪おうとされるのか。わたしの察するところ、これはいつわりに違いない。

この「天神の子、豈両種有さむや」に対して、神武天皇は、天神の子はたくさんいるのだと答える。

天神の子亦多にあり。
天神の子といっても大勢いるのだ。

つまりですね。天津国から降ってきた神の子供は「いっぱいいる」んです。
問題は、もし神の子供だということが、この国にとってやんごとないことなら、「その中で、だれ」が最もそうなのか、という話になるわけですね。
たとえば、こんな話もある。

また、舒明天皇の即位は、

元年の春正月の発卯の朔丙午に、大臣及び群卿共に天皇の璽印を以て、田村皇子に献る。
元年の春正月の四日に、大臣および群卿がみな璽印を田村皇子に奉った。

といい、それを受けて即位したとある。群臣が推戴し、「璽印」(しるしとなる物)を奉るというかたちになる。
群臣が推戴するということは、天皇の正統性は、神が保証するものでなく臣下の総意にあるわけで、専制的神権国家とはいえない。

じゃあ、天皇が特権的な地位にある理由は、なんなの?となるだろう。ここが、日本書紀、のネックになるはずだ。
このあたりは、以前紹介した、

にありましたが(この本も、記紀の差異に注目する本でした)、この二書の、天皇の定義が違うってわけですね。つまり、古事記は、「あめのしたしろしめす(治天下)」で、日本書紀では、「あまつひつぎしろしめす(即天皇位)」。つまり、古事記における「天皇になる」とは、大王としての権力移譲、日本書紀は、皇祖(ニニギ)の祖霊を引き継ぐ(つまり、墓の管理者)人、の交代(仮説C、仮説D)。
まあ、おもしろいですよね。こっちなら、今の天皇が、必ずしも、政治の中心に、位置「しない」ありかたとも、整合性がついてくる。
さて、こういった、3つの違いを、どのように、整理したらいいのだろうか。
私の、独断と偏見、通史を無視した整理をすると、以下の感じか(まあ、ちょっと、無理くり、すぎるまとめですが)。

  • まず、万葉集の、柿本人麻呂、の歌、の認識が、天武クーデターによって、広く流布される。
  • そこで、古事記であるが、これは、卑弥呼の時代の、祭を司る巫女、と、政を司る大王、の二極体制、の維持されていた頃の政治を、口伝などを書き写したものとして、大枠は、つくられていて、そこに、上記の天武の天孫降臨のイメージを投影したものとして、つくられる。神話時代。これは、神話じゃないんだと思うんです。天武の天孫降臨(つまり、渡来人の渡来)を、神話上の存在として借りて、自分たちのことを書いているんだと思うんですね。
  • さて、日本書紀は、そういったさまざまな、資料が、蓄積されていった後で、中国の史書に詳しい渡来人の、知識人が、陰陽思想の上に整理していった、本家中国でも通用するような「正当」な史書の編纂として、整理されていったのであろう。

その整理の過程で、日本書紀では、古事記での、天皇の定義が変わることになるわけですけど、それを、大きな変革と考えることは、遠近法的倒錯、であろう。古事記での定義は、卑弥呼時代の体制なら、普通の感覚、だろうが、もう、時代は、天武の律令時代、なのだ。逆に、違和感があるのは、古事記の方だっただろう。
こんなに変に感じるんだから、もともと、そうだった「はず」だ、ということで、「正しく」直したんでしょう。

古事記と日本書紀 (講談社現代新書)

古事記と日本書紀 (講談社現代新書)