オシムの言うこと

昨日は、大河ドラマ、が見れなかった。録画しておけばよかったな。土曜日見れればいいんですけど、出張だし、また、録画忘れたし、難しいかな。
その後の、NHKスペシャルを見てる途中で、寝ちゃった。
ただ、最初の、方の、サブプライムで、財産を無くした人たちが、証券会社のトップの、豪邸に、デモで、堂々と、玄関正面から、ぶつかって行っている姿は、壮観であった。アメリカで、なにかが、起きそうだ。
民放の、スポーツニュース番組で、オシムがしゃべってた。
日本は、なぜ、こと、この、サッカーにおいて、一等国、になれないでいるのか。
彼は、言うんです。
「今」でも、そのことを、ずっと、考えている、と。
その意味を。
私は、この言葉が、全てを語っている、と思っている。
彼がもし、小学校や、中学校での、子供たちの、サッカー生活を知る機会があったなら、彼は、少し理解したのではないだろうか。
なぜ、日本が、サッカー一等国になれないでいるか。
マリーシア、とか、そういう問題でないのだ。
オシムが言うように、「サッカーだけを生きて」いないからだ。
子供たちは、「文武両道」、の環境に常にある。スポーツのことだけを考える環境を与えられることはない。このことは、以前に、韓国で、毎日、午後は授業に出ないことに相当するだろう。
だから、恐らく、「基礎」を身につけることは、可能でも、世界的にも、抜きんでて、ボールテクニックを体に染み込ませきる、そういう時間を大量に必要とするような、ディープな身体感覚の体得まではいかない。
オシムは自身の教えた選手たちが、「サッカーだけを生きて」いない、ことに不満をもつが、それは、決して、今、そうだ、というだけではない。彼らは、ずっと、サッカーだけに生きてこなかったのだ。急に、変えようとしても、できないのだ。
おそらく、この状況は、当分は変わらないだろう。
しかし、です。
このことは、多くのことを、教えてくれる。つまり、です。今でも、この日本中で行われている、子供たち。小学生、のクラブチーム、中学生、の部活動、高校生の、部活動、もそうでしょう。そこで行われていることは、サッカーでは「ない」のです。サッカーを通じての、部活の顧問の先生と、生徒たちの、人間形成、人間学習、なのです。
オシムは、よくサッカーを芸術に例える。しかし、日本人は、そこに、「倫理」をみてきた。だから、あれほど、高校野球は、大衆に熱狂的に受け入れられてきたのだろう(それは、高校サッカーでも変わらない)。