毛利敏彦『明治六年政変』

1969年初版の名著なんですかね。
日本の歴史をなんとなく、ぱらぱらと、見ていると、つい、こんな素朴な疑問が、もたげてくる。
日本は、いつ、「近代国家」、になったのだろう。
この素朴な疑問の意味するところは、深い。近代国家にとって、必要なものとは何か。
......。
あまりに多くて、書き出せないよー。
つい、少し前まで、徳川のイエ政治を続けていた、前近代的な存在が、なんか、楽天的な夢を語ってたわけですよね。
文明開化の音がするなー。
......。
っと思ったら、もー、近代だ。
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あれ?
いつ。何が起きたの?
つまり、あまりにも、「それ」が実現されたことが、まったく、注目されていないため、いくら歴史の本を読んでも、だれも、気付かないのだ。
それは、あるとき、この太古の頃から考えても、あまりにも、一瞬。つまり、何ヶ年、何ヶ月かで、ほとんど、ある一人の、傑物によって、実現されてしまったのだ。
それは、誰か。
江藤新平、である。

まず、それまで人民を苦しめていた封建的身分差別が撤廃され、人権の確定が進められた。明治4年8月23日の華族・士族・平民相互間の通婚許可、同28日の「穢多・非人」の称廃止と身分・職業の平民並み化、同年12月18日の華士族・卒の職業選択自由の許可、翌5年1月29日の卒身分の廃止、同年8月30日の家抱・水呑百姓の解放と農民職業自由の許可、同年10月2日の人身売買禁止と娼妓・年季奉行人の解放などの一連の布告によって、封建的身分制は基本的に否定された。また、神社仏閣の女人禁制廃止(5年3月)、僧侶の肉食、妻帯、蓄髪許可(同年4月)、切支丹禁制高札の撤去(6年2月)など、宗教の自由化も進められた。

まず、士族の帯刀義務が解除された。次いで5年11月28日には、国民皆兵を標榜した徴兵告諭が布告された。こうして士族の「常識」が否認されると、士族に秩禄(家禄)を支給する必要がなくなる。同年二月、政府は、士族に与えている家禄の3分の1を削減し、残額を6ヶ年だけ支給して、あとは打ち切るという急進的な秩禄処分計画を立案した。

廃藩による封建領主制の否定は、土地に対する封建的領有権の否認をも意味した。土地に残されたのは農民の保有権(耕作権)であったが、それに対して、政府は、4年9月7日に田畑勝手作(作付の自由)を許可し、翌5年2月15日に土地永代売買を解禁し、さらに土地売買に際して地券を交付する地券渡方規則を定めて、用益・処分の自由をともなった近代的所有権(私有権)を法認した。その上にたって、6年7月28日、政府は、画期的な「地租改正」を布告して、田畑貢納制の廃止、地券調査、地価の100分の3の金納地租を規定し、封建的土地制度の解体を確認するとともに近代的土地制度の発足を宣言した。

その他、留守政府は、初の全国戸籍調査(5年1月)、東京-大阪間電信調査(5年4月)、近代的教育制度創設(「学制」領布)および裁判所体系整備(5年8月)、新橋-横浜間鉄道開通(5年9月)、太陽暦採用および国立銀行条例制定(5年11年)、あるいは国憲編纂と国会開設の計画、法典整備、司法制度確立、太政官制改革、全国郵便制度実施、さらに宮廷の粛清と簡易化など、目まぐるしいばかりの新施策を次々に打ち出した。ここに、いわゆる「御一新」の社会的変革は、あらかた実現したといえる。

江藤新平、といって、どれだけの人が彼を知っているだろうか。
幕末の、明治維新という、このクーデターが、岩倉具視と、大久保利通が、薩長を使って、実現したものであるなら、佐賀藩で、さまざまな、藩政改革の実績を積んで、抜擢されてきた、江藤新平、のような、テクノクラートは、本来、主役となる存在ではなかったのではないか。
ところが、例の、岩倉使節団、において、大久保や木戸といった、クーデターの主役たちが、日本を離れている間、西郷隆盛が実質トップとして君臨している下で、このような、近代国家化、が、一気に、進んでいた、ということなのだ。
そして、彼ら、岩倉使節団、が、本来の予定を、何年も遅れて、日本に帰国したときには、日本は、まったく違った、「法治国家」へと、生れ変わっていた。
もちろん、この、あまりにも早すぎる、急激な変化は、その後、社会のさまざまな階層において、軋轢を生んでいくのであるが(当然ですね)、しかし、どうでしょうか。もし、あのまま、クーデター第一世代の、大久保や木戸が、日本に残っていたなら、このような、改革、一つとして、進んだでしょうかね。彼らは、明らかに、過去のさまざまな、しがらみを生きてきた人たちなわけでしょう。
つまり、私が言いたいのは、この、明治維新、をあまりにも特異にしているもの、近代国家、にしてしまったものが、ひとえに、江藤新平、という、あまりにも、時代を突き抜けすぎていた、あまりにも、テクノクラートとしての才能のありすぎた、一人の傑物による、「作品」だった、ということなのです。彼がいなかったなら、日本は、いつまでも、その頃の、朝鮮王朝のような、政治システムをずっとやってたんじゃないのか、そういうことなんですね。
日本は、欧米から学んで、どうのこうの、朝鮮は逆で、どうのこうの、言ってるけど、違うでしょ。一人、江藤新平、がいたから、でしょう。そして、朝鮮には、いなかった(いたかもしれないけど、活躍できる場はなかった)。それだけの、差、なんでしょ、ってことなんですけどね。
その後の、日本の政治とは、なんのことはない。この、江藤新平、の、あまりの急進的改革への、反動、そのものであり、つまらない限りです。
あれほど仲の悪い、岩倉使節団、でも、共通の認識は、江藤新平、憎し、ですね。彼らは、あらゆる手練手管を使って、江藤新平、の政治生命を根絶することを目指し、その後の政治生命を使うわけです。

[西郷の遣韓での大久保の呼出し説得に、]困りはてた岩倉は、10月2日、各参議を個別に招いて意見をもとめることにした。伊藤はその日も岩倉邸を訪ねていたが、たまたま退出してくる大隈参議に会った。そのときの模様を伊藤はすぐに木戸に報告したが、その書簡によると、伊藤は大隈に、「是非新参を廃し、大久保を出し候方然るべく」、すなわち新任参議(後藤、大木、江藤)を解任して大久保を参議にすべきだと思うから、「同人(大隈)も同意」であればその旨を三条・岩倉に「屹度論迫」してほしいと依頼した。大隈も、それ以外には「妙策」がないと伊藤の説に「雷同」してくれた。しかし、三条・岩倉が「随分姑息論」なので、「私(伊藤)も充分の見込みは御座なく」見通しは立たないが、すでに「乗りかかり候船なれば、先ず溺れ候迄は乗り抜く工夫」をするほかなかろう......、となっている。
ここに、はからずも伊藤戦略の真のねらいが露呈している。すなわち、江藤を含む新任参議の追い落としこそが中心目標であり、大久保「拝命」はその布石にほかならず、「朝鮮一条等」はほんのつけ足りであったといえよう。

江藤は逃亡先の土佐甲の浦で捕縛され、佐賀に護送されて裁判に付された。裁判とはいえ僅か二日間、本人の陳述もほとんどさせず、上告もみとめない、形式的なものであった。近代的司法制度の確立に精魂こめた江藤にとっては心外のきわみだったにちがいない。判決は、除族のうえ、斬罪梟首という極刑であった。大久保は、4月13日の日記に「今朝、江藤、島[義勇]以下12人断刑につき罰文申し聞かせを聞く、江藤醜躰笑止なり」と記し、勝者の優越感を露骨に表わした。ここに、大久保の「一の秘策」は完成したといえよう。

そもそも、こういう連中なわけです。気に入らない連中は、陰謀でカタにはめて、かたずけりゃ、なんでも、自分の思い通りにできる。この程度の小人が、日本の初代の「支配者」だったということでしょう。
よくある話なわけですね。そもそも、はるか、中国の歴史をみても、日本の歴史をみても、あるのは、常に、権謀術数。友敵理論。それ以外の、「理念」の片鱗がみえるのは、時々現れる、傑物の中くらい。歴史など、その程度のものでしょう。そういう意味では、あまりに、江藤新平、は存在そのものが、超越的だったのでしょう。
最後に、やはり、ふれないわけにはいかない、西郷隆盛、ですが、こうやって、その後、西郷、も、江藤、も、政治の中心からパージされていく過程で、さまざまな、言論操作が、残った権力者によって、されていったのでしょう。これこそまさに、「歴史は勝者によって書かれる」というわけです。そういうわけで、西郷という人については、どういう行動原理で動いていたのか、非常に分かりにくくなっているのだろう。

西郷は波瀾万丈の政治的生涯をおくり、血なまぐさい幕末維新の動乱期に、革命家として、しかもしばしば軍事的指導者として活躍したが、かれの活動実績を見ると、実力闘争に訴えるよりも、交渉によって対立を平和的に解決に導こうとした傾向を看守できる。
第一の事例は、元治元年(1864)の第一次長州征伐の際の行動である。西郷は、征長軍参謀となって遠征を推進したが、当初は長州藩に厳しい処分を加える方針を表明していた。9月7日付大久保利通宛の書簡には、「是非兵力を以て相迫り、其の上降を乞い候わば、わずかに領地を与え、東国辺へ国替迄は仰せつけられず候ては、往先御国(薩藩)の災害を成し」と、軍事的威圧を加えて長州藩を降伏させ、東国方面の小領地に転封せよと厳しい態度を示している。ところが、同月19日付の大久保宛書簡では、「(長州領への)攻め掛り日限相分り候わば、直様私には芸(州)へ飛込み、吉川、徳山辺の処引き離し候策を尽くし申したく、内輪、余程混雑の様子に御座候間、暴人の処置を長人に付けさせ候道も御座あるべきかと相考え居り申し候」と、西郷みずから長藩の隣国芸州に乗り込んで、長州の末家(吉川家)や支藩徳山藩)を本藩から引き離し、かれらに「暴人」を始末させて無血降伏に導くやり方もあると、計画を語っている。

第二の事例は、戊辰戦争解決のやり方である。慶応4年(1868)1月7日、明治新政府は、徳川慶喜追討を布告し、西郷は東征大総督府参謀となった。東征軍の事実上の責任者である。当初、西郷は、徳川慶喜に厳重処分を下すべしとの意見を表明していた。すなわち、2月2日付大久保利通宛書簡では、「慶喜退隠の歎願、甚だ以て不届千万、是非切腹迄は参り申さず候ては相済まず、......断然追討在らせられたき事」と、慶喜切腹にまで追いつめよと述べている。ところが、同じ2月中に、大久保は、三箇条の降伏条件、つまり「一、恭順の廉を以て慶喜処分の儀寛大仁恕の思食しを以て死一等を減ぜらるべき事、一、軍門へ伏罪の上備前へ御預けの事、一、城明け渡しの事、但し軍艦銃砲相渡し候勿論の事」を岩倉具視に提案したが、これは、西郷が、3月9日に徳川側の使者山岡鉄太郎に回答した条件とほとんど同じであるから、大久保と西郷とのあいだでは降伏条件についての事前の了解があったと推定してよかろう。つまり、西郷の内心にはすでに寛大な処分案が秘められていたわけである。

いろいろなものを読んでくると、一つの、アンチノミーがあるのではないか、という思いになってくる。
それは、遣韓、の是非について、である。
この表現は、微妙であろう。
日本は、日清戦争において、朝鮮半島を舞台として、中国と戦争を行い(この結果として、台湾を植民地とする)、日露戦争において、朝鮮半島を「争って」、ロシアと戦争を行った。
しかし、それ以前において、琉球は、薩摩藩の植民地、日本の一部への吸収、が行われているのである。これには、当時の、中国の、国力低下も影響していたであろう。
もっと言えば、日本国内の各藩(国)は、薩長土佐連合による、革命政権によって、解体させられていた。
明治政府にとって、当面の脅威が、ロシアであったことは、自明であった。しかしそれは、朝鮮、中国にとっても、同様の地政学的な、問題であったはずである。
そうしたとき、どういうパワーバランスが、この地域に実現することが、目指されたのか、ということになる。
西郷にとって、国家間の支配被支配の関係のモデルには、琉球がなかっただろうか。長きにわたり、薩摩は、琉球王朝を存続させてきた。それは、明との国交を樹立できなかった、徳川幕府にとって、大変便利であることを、分かっていた、からですね。実際に、かなりの重税によって、江戸時代から、琉球は、傀儡政権化されていた。しかし、これは、逆に言うと、ものすごい「支配」であるわけです。琉球は、それだけの理由によって、存続を許されたわけで、その「平和」的意味を考えないわけにはいかない。
もちろん、江戸時代を通しても、琉球に対する、島津家の支配を、実質、琉球は解体されていた、と、考えるべき、という考えが大勢であろうが、そもそも、薩摩藩にとって、琉球を、武力によって、滅ぼすことは、いつでも、いくらでもできたわけである。しかし、もしその支配が、「結果として、」まったく、武力を伴わずに実現し続けたとしたら。
言わば、これこそが、(歴史の皮肉であるが、)「平和」なのであろう(それは、今の、日本にとっての、アメリカのようなものでもある)。
西郷にとっては、朝鮮半島への、日本の姿勢にも、同じことが言えたであろう。世界は、さまざまなパワーバランスの上に、維持されるとするなら、各国の関係が、「朝貢的」となることもありうる。しかし、なんらかの、自治が許されないとする、いわれもないわけである。であれば、なにも、武力による、弾圧と、収奪だけが、答ではない。
もっと言えば、日本と朝鮮と中国が、お互いの自治を尊重しながら、まさに、ナチスに対しての、イギリス、フランス連合軍のように、ロシアと対峙するという選択肢だって、まったくなかったとは言えないであろう。実際に、戦後のこの地域のバランスを考えるなら、そんなこともありえたのではないか、と言いたくなる誘惑にかられる。
しかし、結果として、自国の不満分子への、飴玉、として、世界は、切り売りされ、配られるとするなら、そこになんの正義があろうか。
いや、むいろ、こういった、「帝国」的支配のモデルの、最大の、阻害要因となっていたのは、最後のところでは、むしろ、伊藤博文などが、憲法に書き付けた、天皇教、なのであろう。
結果としては、日本の支配は、現地住民の、日本化、天皇教徒への、改宗こそ、なによりも、目指さずにはいられない、政治体制になっていた。そういう意味では、民族自決という、支配の選択肢は、最初から、考えられえなかった、ということになるのか。そして、むしろ、この事態を喜んだのは、さまざまに、天皇を御本尊との関係の中に位置付けていた、神道家や、仏教家、だったのであろう。

明治六年政変 (中公新書 (561))

明治六年政変 (中公新書 (561))