礫川全次『史疑』

「日本」は、「いつ」、始まったのであろう。
人によって、この答えは違うだろう。
しかし、冷静に考えれば、その答えは、「明治維新から」、と考えることが正しい。
しかし、その、明治の政府というものが、一体、どういうものであったのかを考えることは、なかなか困難な作業となる。
それは、なぜなのだろう。
いや、むしろ、こういう問題提起自体が、そもそも、なんの話をされているのか、という感じなのだ。
明治政府、とは、一体、「だれ」だったのだろう。
なぜ、だれも、このことに興味をもたないのか。
そのことについては、ちょっとした、皮肉な気持ちがある。
それは、やはり、カント、なのだろう。彼の、近代理性とは、おそらく、ルソーなのだろう。そしてそれは、社会契約論、といいますか、もっと言って、近代政治システム論、つまり、ぶっちゃけて、言えば、三権分立、ですよね(こんなところにまで、また、「3」か、となると、あながち、ピタゴラスをばかにできないな、ってなっちゃいますが)。このバランスの上に、近代の理性を見よう、ということですよね。彼は、当然、当時のドイツの国王政治の下で仕事をしていたわけだけど、ナポレオン、フランス革命もあり、国家において、「国王」というのは、前時代の、「国そのもの」、というような存在とは、考えられなくなっていく。少しずつ、主役が、多くの国民「そのもの」に移っていく。その過程で、国王も、国家という身体の中の一部の器官、なのだ、と。
そして、この近代システムは、やはり、「回り出す」、わけです。まさに、勝手に、自己運動を始める。
それは、なぜか。
結局、その方が、多くの人にとって、「便利」だという、感覚が共有されていくからなんじゃないでしょうか。当たり前のように、明治の始めのように、テロ、ばっかりの毎日だったら、その危険を予測しながらの生活ですから、多くの時間をそこに裂かれますよね。あまり、前向きな社会じゃないでしょう。
もし、社会にそれだけの、利便性や、食料などの、生活必需品が、多くの人に行き渡るシステムが回せるなら、おそらく、社会は、「平和」になる、ということなんだと思います。そのことを、戦後の先進国は、証明してきたんじゃないでしょうか。
現代は、おもしろいように、各自が、自分の身の回りの生活のことだけを考えている社会が実現しました。
だれも、ほかの人がどんな政治的考えをもっているのか、に関心がない。日本中のどこにも、政治的な議論をたたかわせている場面に出会わない。だれも、そういうことに、関心がないのです。
しかし、です。
社会は、まわっている。
これはなんなのだろう。おそらく、これが、カントが考えた、近代理性、なのでしょう。これが、永遠平和の理念、と言ってもいいのでしょう。理性とは、皮肉なものなのでしょう。しかし、その理性は、さまざまな、軋轢を経験して、カドがとれて丸くなっていくんですね。
明治政府、にしても、おそらく、そういうことなんじゃないでしょうか。
日本の多くの人にとって、明治の傑物たちが、なにを考えていたのか。どんな、社会を実現しようとしていたのか。どんな、権力を奪って、維持しようとしていたのか。どんな野望を込めて、法律を作ったのか。
そういうことは、おそらく、当時を、同時代として生きた人たちにとっては、真剣な話だったはずです。ところが、こうやって、時代を経てくると、だれにとっても、「どうでもいいこと」、になっている。
その状況とは、なにを意味しているのか。つまり、これこそ、カント、の言う、理性。国家システムは、あい変わらず、回り続けているし、多くの人たちは、それなりに、不満をもちながらも、満足のある日常を謳歌してきている。国家中枢に関わる、官僚も、さまざなな、不正を行なったり、天下りなどの、甘い汁を吸おうという、はしたない行動は目立つが、しょせん、世間なみより、恵まれた、資産を残したいというレベルの話で、一般の、庶民の幸福追求の、域を出るものじゃない。
この国の、国家システムをぶち壊し、新たな、社会権力の、再編成を目指す、というような、戦前の北一輝のような、そういうギラギラしたものは、もうない。
いわば、戦後とは、世界レベルで、富の分配が、決定された。世界は、先進国と後進国(それと、社会主義国)にわかれた。そうなったとき、どうして、「先進国内」において、あえて、トラブルを起こそう、などという、ギラギラしたものが、ありえようか。そんなことをしなくても、先進国とは、後進国に勝る、富の偏在が実現されていたのだがら、余裕で甘受できたレベルだった、ということなのだ。
もちろん、こういう話を書いている頭の片隅には、最近成長の激しい、BRICSや、さまざまに、軍事的プレゼンスを誇示し始めた、北朝鮮、の動向が頭にあるのだが、しかし、それでも、である。
日本人は、あい変わらず、平和(ぼけ)、である。いつまでも、この「幸福」が続く、とでも思っているのだろう。
しかし、それは、あながち、どころか、かなり正しくて。
「実際、いつまでも、平和」、なんでしょーねー。
これが、カント、の理性、なんですねー。彼は、近代とはなんなのかを、よく見てたってことなんでしょうかねー。あの、カントの、皮肉な口ぶりが。
掲題の本は、あらためて、明治において、ほとんど、発禁処分と同じ扱いをされた、「史疑」という本について、紹介し、考察する内容となっている。この本の内容としては、なんのことはない、徳川家康、の出自が、賤民だったんじゃないか、こういう内容でしかない。しかし、掲題の本の著者は、その内容から、この本の言わんとしているところは、そこではなく、明治政府の要人こそ、批判しているのだ、と解釈する。だから、発禁処分とされたのだ、と。
そうなると、だれのことを言おうとしているかは、自明であろう。伊藤博文、と、山形有朋、しかいない。
この二人、が、名門の武士の出身でないことは、だれもが知っていることであろう。
伊藤は、武士の中でも、かなりの、底辺の生まれ、である。しかし、養子になるなどして、吉田松蔭の私塾に通うようになる。

なお、松下村塾の校風について、貴重な証言があるので引用しておこう(元長州藩士進十六が語ったものという)。

......我等士分の家に生れた子弟は、当然藩の学校たる明倫館に通学したのであるけれども、士分にあらざるものの家に生れた子弟は、云はば藩黌たる明倫館に学ぶことが出来なかったので、已むを得ずして私塾に入って学問した。彼の入江とか、伊藤とか、山県公などが、何れも吉田松蔭の松下村塾に学んだのは、蓋し之が為である。後年奇兵隊の総管として、軍監として、天下の耳目を洗発するに足る運動を為したのは、其の中堅が高杉とか、山県公のやうに、松下村塾の子弟が多かった訳であるが、此等のの人々は、当時世間から全く仕末におえぬ壮士団の如く見られてゐた。(以下略)

松下村塾の吉田松蔭が、軍学を、メインにしていたわけだし、この、奇兵隊の、かなり重要な部分を占める連中なんですね。
明治維新の、第一期創生メンバーが、大久保利通、や、西郷隆盛などであるとすると、次の世代が、伊藤博文や、山県有朋、などになるのだろう。この第二期、が、実際に、憲法などを作ることになるのだが、問題は、この連中が、どういった「素性」の連中だったのか、ということである。

伊藤は、文久2年(1862)の国学者塙次郎殺害に加わっている。

旧千円札の人、伊藤博文の若い頃ほど、「テロリスト」という言葉が似合う人もいないだろう。こういった人間を、お札に印刷して、あがめるのも、どうなんですかね。
しかし、そもそも、彼らの、素性を考えれば、もともと、こういう連中なのだ。
いいとこの出の、おぼっちゃんじゃ「ない」わけですね。
しかし、この伊藤っていう人。見事に晩節を汚しますね。華族令、ってのを自分で法律作って、自分で、自分を「貴族」と「自称」しやがった。
自分で、自分を、やんごとない身分の家柄に、「法律」作って、なり下がって、家系図まで、捏造。もう、勝手にしてくだせー。
有名な、閔妃殺害の時の、三浦悟楼、も全然、武士の中でも、下の下。養子で成り上がってきた連中。奇兵隊の、平隊員、だったが、この創世時の、メンバー、だからなのだろう。どんどん、出世していく。
明治、とは、こういう時代なのだ。

史疑 幻の家康論

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