毛利敏彦『江藤新平』

前回は、西郷が、征韓論を主張したのか、という、明治六年政変、のいきさつが話の中心であったが、そこに見えてきたのは、あまりにも、突出した結果を次々と生み出していた、傑物、江藤新平、の存在であった。
しかし、彼が、あらかた、その仕事を完成した後、あっという間に、亡くなり、言わば、歴史から、忘れ去られたかのように、彼の仕事に注目し、評価する言説がなくなる。まるで、江藤新平、など、始めから存在しなかったように、彼の存在を徹底して隠して、「美しい日本」の物語が歴史と称して語られていく、というわけだ。
しかし、である。彼が残した、さまざなま、インフラは、決定的であった。もう、これらの存在なくして、日本は、ありえなくなっていたのである。
つまり、「近代国家」、が、その時、突然、生まれた、発生したのである。江藤新平、によって、ある日、突然、「勝手」に、日本を、「近代国家」、にさせられたのである。
もちろん、政治や軍隊は、当時の、長州閥、の話にもあるように、権力者は、権力者仲間の不祥事を、もみ消し、そのためなら、市民の権利など、いくらでも踏み付けにして、なんの痛痒もない、というわけなんでしょうが、あにはからんや江藤新平、が、法律に書いちゃってたんですねー。
つまり、おおっぴらには、できない、裏でやろーってわけでしょうけど、裏でやるってことは、さまざまな、裏の組織に、弱味を握られる、ってことですからね。裏とのつながりは、一度できたら、容易には切れない。長期的には、自分たちの権力や、その正当性を、著しく弱体化に導くことは、避けられない、ということでしょう。
それにしても、江藤新平が、近代、に目覚める、きっかけ、とはなんだったのか。もちろん、長崎にも近い、佐賀藩出身の彼の前には、鍋島政治の下で(葉隠の、鍋島でしたっけ)、さまざまな、洋学体験を積んでいたはずであるが、直接、ということでは、やはり、「ナポレオン法典」のようですね。

その蓑作が留学先のフランスから持ち帰った土産に、当時、世界でもっとも完備した近代法典とされた、いわゆる「ナポレオン法典」があった。明治二年、制度取調べを所管していた参議副島種臣は、編纂中の「新津網領」(刑法)の参考資料にするために、蓑作にナポレオン法典中の刑法の一部を翻訳させた。この間の事情について、蓑作はつぎのような回顧談を遺している。
「明治二年に、明治政府からフランスの刑法を翻訳しろと云う命令が下りました。(中略)そんな翻訳を言付けられても、ちっとも分かりませんだった、尤も、全く分からぬでも無いが、先ず分らぬ方でありましたが、どうかして、翻訳したいと思うので、翻訳にかかったことは、かかりましたところが、註解書もなければ、字引もなく、教師もないと云うような訳で、実に、五里霧中でありましたが、間違いなりに、先ず分かるままを書きました」
翻訳にあたっては、まず専門用語自体の新造から始めなければならず、筆舌に尽し難い苦労の連続だったに違いない。江藤は、この苦心の蓑作訳フランス刑法をみて、法制への鋭敏な感覚の持ち主だっただけに、直ちにフランス法の優秀さを見抜いた。かねて民法制定の緊要性を痛感していた江藤は、ここにフランス民法を手本にして新日本の民法を作ろうと決意したのである。

いきなり、「ナポレオン法典」、ですか。
すごすぎ、です。
そりゃ、天才、も生まれます。
民法こそ、近代国家、の「全て」と言っていいでしょう。むしろ、政治とは、この、民法、によって定められる、国民の権利を、どのように侵害しないか、その範囲で行われる「べき」ものなのであって、その礎こそ、全て、なんですね。
これほど、早い段階で、日本に、民法、が確立したことは、驚きを通り超して、驚異、でしょう。日本の、近代革命は、なんとも、ひっそりと、誰にも気付かれることなく、この、一人の、傑物によって、(平和裏に)一瞬のうちに、実現させられていた、ということなんですね。

一例をあげれば、民法権頭楠田英世、権大法官鷲津宣光、権中法官河野楯雄、三等出仕荒木博臣らの連著上書には次のような一節がある。
「戦犯司法省を置かれ候義は、封建の弊を更改し、一般郡県の治に帰せしめ、各人民の権利を保護し、以て全国を盛大富盛にして、各国の立法、行法、司法三権を分別し、互に其の権を平均することを得て、人民自由の基本となすの御政体に之れ有る可くと存じ奉り候、然らば司法の職とする、所謂三権中の一大事務に之れ有り、其の費用も亦大ならざるを得ず、......司法の事務の如きは、政府の尤も急にすべくして、......如何となれば我国数百年豪族政治の弊ありて、各人民を束縛抑圧し、自主の権利を妨害し、其の耳目を糊塗するを以て、各其の業に勤むる事を得ず、......故に五法を布き、其の権利を保護せざれば、四明何を以て、其の耳目を開き、其の業に励み、其の心を正しくせんや」
すなわち、三権分立のもとでの司法権の確立と法による人民自由・人民権利の保護が司法省の使命だとしている。江藤の持論そのままであり、これを見ても、江藤の思想が省内全体に浸透・徹底し、司法省が一丸となって法治国家の実現に邁進していた有様がうかがわれるのである。

明治六年政変 (中公新書 (561))

明治六年政変 (中公新書 (561))

しかし、もちろん、この、あまりの、スピードで実現された、近代革命、に、誰一人、ついてこれなかったのは、当然でしょう。ちょっと前まで、仇討ち、こそ、全ての倫理の中心だった連中です。主君への忠勤は、ひとえに、仇討ち、を武断、として行えるか、にあったわけだ。
こういった、行動原理で動いていた連中に、一体、何が起きていたのかを、理解できていたはずもない。いや、それどころか、日本の、明治、大正、昭和、をかけて、その敗戦を迎えるまで、誰一人として、この明治の、江藤新平、が政府中枢で活躍した時代に作られた、さまざまな、法体系の基礎そのもの、これが一体何なのか、何を意味するものなのかを、理解していなかったのではないだろうか。
この後、江藤新平は、政治の中心から、パージされ、抹殺され、伊藤博文、などが、憲法を作り、長期の元老政治を行っていくわけだが、伊藤博文の理想としたものが、ビスマルク政治だったという話からも、この憲法が、まったく、後から付け加えられた、首尾一貫性もない、パッチワークの、駄文であることは、間違いないであろう。これほど、意味の分からない、質の悪い憲法もないであろう。
事実、伊藤が、軍隊を天皇の直接の支配に憲法でしたために、三権の一つの立法府、行政は、こと、軍隊に対しては、まったく、アンタッチャブルになってしまった。つまり、日本には、事実上、二つの権力が存在し、股裂きの状態が、敗戦まで、続くことになる。この事実、一つ、だけをとっても、いかに、伊藤などの、江藤新平をパージした連中たちが、この江藤システムを事実上、骨抜きにすること、破壊し、自分たちのお手盛り政治を実現することが、行われ続けたかが分かるというものでしょう。その後の、日本政治が、どこまでも、退屈なのは、言うまでもないでしょう。
伊藤は、憲法をつくり、初代総理大臣、を自称し、長く、政治のトップに君臨し続けるわけだが、その権力のバックグラウンドが、近衛隊、つまり、その暴力組織を事実上席巻していた、長州閥、にあったことは、言うまでもないことでしょう。政治とは、暴力なのである。どうやって、暴力組織を自分の「味方」にするか。
今回の補正予算で、麻生さん、警察のNシステムに、膨大なお金をつけたそうですね。国民の未曾有の経済危機のために、お金を積んでくれてると思ったら、国民「監視」の方に、必死のご様子で。今回の、小沢さん秘書逮捕の論功行賞でしょうか。

江藤は桐野の計画が軍人職権濫用であり、かつ司法権の侵害でもあるとして、西郷に頼んでこれを抑止させるとともに、大検事島本仲道に捜査を命じた。不正と網紀紊乱があれば、摘発と粛清に努めるのは司法卿の当然の責務であったが、江藤は、長州閥の逆うらみをうけることになった。

京都府政の実力者槇村正直長州藩出身で木戸の腹心であったから、司法省の追求をうけると木戸に助けをもとめた。木戸は、「裁判所の処置不都合」として三条に善処方を申し入れた。ところが、裁判所・司法省の背後には人民権利の保護に情熱を傾けていた江藤が控えていたから、山城屋和助事件、尾去沢銅山事件に引き続いて小野組転籍事件においてもまた、江藤は長州閥のうらみをかうことになったのである。

人間は死ぬ、のである。必然的に。しかし、それを、ギリシア悲劇のように、「悲劇」として、語ってはならない。大人は、二十を過ぎた時点から、いつ死んでもいいよう、後悔のない人生、実践、あるのみなのであろう。もちろん、そのことの無意味さを語る人もいる。しかし、しょせん、あと何十年の命でしかないではないか。江藤新平の生涯を悲劇と考えることは、その後の伊藤から始まる、日本の政治家、たちを、まるで、有徳の聖人、と考えることと同じく、笑止、そのものでしょう。たんに、あまりにも、時代を突き抜けていた、それだけであって、そのことは、むしろ、バルザックのように、人間を「喜劇」として、描くこと、それこそ、真相に近いということなのだろう。

江藤新平―急進的改革者の悲劇 (中公新書)

江藤新平―急進的改革者の悲劇 (中公新書)