伊牟田比呂多『征韓論政変の謎』

著者は、作家なのだろうか。2004年の本。
歴史とは、相対的なものである。一方の立場があれば、他方の立場がある。それぞれに、優越はない。所変われば、考えも変わるのだ。
江藤新平だって、(相当な、天皇主義者なのでしょう)考えようによっちゃ、長州閥にダメージを与える効果を考えて、長州閥汚職追求を推進したのかもしれない。
しかしね。そういうのは、一言で言って、つまらない、ということなんですね。
歴史の真実なんて、そう簡単に分からない。証拠を出せと言われたら、なかなか、決定打は、ないものです。推理を補強する、状況証拠があるくらいなものです。
だから、そういう意味では、完全な不可知論ですよ。
歴史は、全て、物語。そりゃ、そうでしょうよ。
しかしね。その視点には、言わば、ある種の「見識」のようなものが、現れる、とは言えないだろうか。

明治政府の高官たちが、旧大名屋敷に住み、召使いを多数抱えて「御前様」と呼ばれ、往復の馬車に傲然と乗り、高級料亭で美妓の酌する美酒に酔う時勢の中で、維新前と変わらず質素な生活を送っていたのは、西郷と板垣退助江藤新平の三人だけであったといわれる。

こういったちょっとしたエピソードにしても、小人は、こんなこと、気にもとめないわけです。麻生さんが、毎晩、ホテルのバーで呑みあかしているというなら、ああ、そういう人なんだな、と、だれも思うわけですが、案外、本人は、ずっとたいしたことじゃないと思っている、ということですね。
つまり、「盲目と明視」というのはやっぱりあるのであって、ということですね。

大久保はビスマルクから、小国が大国に成長する過程では、独裁専制主義が必須であることを学んだらしく、また大久保・木戸は、チュールのフランス内乱対策から、内乱はいくら起っても驚くに当たらず、各個撃破で徹底的に叩き潰し、賊徒は殺していけばよい、という教訓を学んだのである。

こういった、当時の西洋列強の、一つの、強者論、植民地論、を、ありがたくちょうだいするのは、この時代、当然じゃないか(今でも、そう語る御仁は、ごまんといるが)、というのは、一見、その通りに聞こえるとしても、そうでない、と主張していた人たちもいる、ということに注目しないわけには、いかないわけですね。西郷のアジア主義からいえば、そういう西洋列強は、たんに、「尊敬に値しない」、それだけなわけです。必ずや、儒教的な、アジアの義の王国が、いつか、世界を席巻するはず、そういう価値観の下に、主張しているわけでしょう。
ですから、逆、なんですね。そもそも、そういう心性、を長期に渡り、生きるポリシーとしていた連中が、たまたま、その意を得たり、と、ビスマルクなどに、とびついた、それだけなわけです。西郷が、ビスマルクと、たとえ面会したとしても、何も変わるわけないわけでしょう。その人間の、性根の問題なわけです。
大河ドラマ篤姫は、もろ、薩摩藩、を中心に描きました。しかし、あそこまで、薩摩の連中を、義の闘士と描くことは、大河ドラマ直江兼続、の見すぎ、です。もちろん、西郷を否定するつもりは、もちろんないが(ただし、江戸城無血開城、のいきさつは、まったく、逆ですね。あくまで、主導権は、西郷にあったはずで、篤姫の手紙見て、感動して、どうのこうの、は、大河ドラマ篤姫の、見すぎ、ってことでしょう)、それ以外の連中を、どのように評価するかは、まったく、別の話に決まってるわけです。
西郷と大久保は竹馬の友、として、同郷出身で、子供の頃から、仲が良かった、と描かれてきた。実際に、故郷の同じ場所に石碑まであるそうだが、著者は、その想定を疑う学説を紹介する。そもそも、同じ場所の出身ではないのだ。だから、子供の頃から、仲がいい、なんていうのは、ひどい嘘だということだ。
大河ドラマ篤姫でも、大久保は、目的のためには、手段を選ばない存在として、描かれていた側面はあったが、おおむね、西郷に理解のある人間として描かれていた。しかし、そうなのか、ということなんですね。西郷の方としては、別に、大久保がどんな人間であろうと、態度が変わるわけではない。しかし、大久保にとって、西郷は、そういう人間ではない。西郷は、彼の性格もあったのだろう。幕末において、諸藩の下級武士に圧倒的な影響力があった。大久保にとって、西郷が、竹馬の友でないとしたら、同じ藩の出身という位の意味しかない。しかし、当時はまだまだ、島津藩主も健在の、薩摩藩である。藩主を中心とした、武士ヒエラルキー社会にとって、同じ藩とは、それほどの意味があると言えるか(松下村塾じゃないんです)。むしろ、志を同じくする盟友かどうか、こそ、人間を突き動かすのではないか。そういう意味では、大久保にとって、終始、西郷とは、利用できる駒としてしか、数えられてこなかったのではないか。
その、最も大きな証拠として注目されるのが、例の、寺田屋事件、であるのだが、この事件は、これ自身だけでも、大変に興味深い。
この事件は、一般には、島津、薩摩藩への、朝廷の信頼を強めた、事変と考えられている。しかし、歴史の闇に埋められた姿は、そんな生やさしいものではない。

中河内介暗殺については、薩摩藩秘中の秘とされてきたが、田中河内介・左磨介父子の、縄で後ろ手にしばられ、足かせをされて船板に八寸釘で打ちつけられた惨死体が、魚の餌食にならずに小豆島に流れついた。

また、河内介暗殺を仲間割れのように見せかけるため、目付役人の殺害を手伝わされた三人の同志が、変死したり、気が狂ったり、廃人になってしまった。気が狂った同志が身振り手振りで、刀で人を刺し殺し、縄でしばって、大きな釘で板に打ちつけ、甲板から海に投げ込む真似をしたので、秘中の秘の藩の秘密も寺田屋残党から世間に密かに知れわたっていった。

この田中河内介暗殺事件が天下に明らかになったのは、祐宮と呼ばれた幼少時代に養育掛を務めた田中河内介を慕っていた明治天皇が、河内介の行方を探していた熱意からであった。

明治天皇の、養育係であった、田中河内介。そういう意味では、明治天皇が、最も、心の支えとしていたことは、言うまでもないわけだ。そのことを、よく理解しておきながら、薩摩藩は、これ以上ないような鬼畜の行為によって、殺すだけではない。そういう非道をやっておきながら、あらゆる手段を使って、この事実を隠蔽したのだ。なにくわぬ顔で、平然と、天皇の面前に現れ、へらへら笑っていた、というわけだ。たしかに、たまたまの、偶然によって、この事実は、明るみにでたのかもしれない。しかし、ここまで、徹底して、隠蔽していたのだ。だれにも、気づかれようがなかった話なのだ。
これのどこが、尊皇、なんですかね。この事件で、西郷が、島津久光大久保利通を、非難する手紙が残っているそうですね。よく考えてみて下さい。これでも、西郷と大久保は、竹馬の友、ですかね。
最後に、江藤新平の、名誉回復、こそ、一日も望まれる、ことを書いて終わろう。

佐賀の乱は不平士族の反乱とされ、明治七年一月に佐賀士族の間に暴動の兆、不穏の形成があり、一月中下旬には江藤の帰郷で士族が勢いづき、二月一日にはついに官金を略奪するに至った。そのため二月三日、佐賀県士族が太政官御用金融器官小野組佐賀出張所から官金を略奪したとの福岡県から内務省への電文により、太政官(政府)は、翌日の四日に出兵鎮圧命令を発した、ということになっている。
ところが太政官が授受した全文書を収める基本公文原簿(国立国会図書館蔵)には、四日の出兵発令後の七日発で現地から「金皆アル」・「安心セヨ」との電信報告があり、十一日には一時停止していた県庁出納業務も再開したなどとの注目すべき電文三通がある。
現地の小野組関係者の認識では「官金を略奪」伝々に類する深刻な事態は発生していなかったわけで、出兵を要する事由はなかった。佐賀の乱の発端となった福岡県発電報からして謀略の疑いが濃い。

前にも言ったように、この国はいつ始まったかの正確な定義から言えば、明らかに、明治からなのだ。明治に、今、私たちが、日本と呼んでいる国ができたのだ。そのことの意味をよく考えた方がいい。私たちは、よって、当然、この明治に生まれた権力の延長からの、さまざまな、マインドコントロール下、にある。あの、明治維新において、何が起きていたのか。真実は何なのか。
歴史とは、相対的なものであり、勝者の物語である。しかし、そんなことを言って、悟りすまし悦に入ってる連中は、たんに不快なだけである。学問だろうがなんだろうが、この世の全ての事象は、ヘーゲルの言う、主人と奴隷。あらゆる「真実」はパワーポリティクス。上等だよ。科学が無限の未来への裁判なら、「千代に八千代に」ですか、ご勝手に。たんに、退屈な連中、よ。ゴットハンドよろしく、大学教授のイスにでも座って、無から有(ゴミ)でも生み出してろ。
江藤新平の、名誉回復、は、たんなる、一人の明治の荒波に消えていった、星の数ほどいる名士の中の一人、の、物語ではない。日本人が、この日本という国を、どのように受け止めるか、その、橋頭堡であり、江藤新平、をどう考えるかによって、その人の、この国への捉え方が決定される、そんな存在なのであろう。

征韓論政変の謎

征韓論政変の謎