由井正臣『軍部と民衆統合』

私は、あまり、こういう本を読んでこなかったこともあるのであろうが、大変に、よくできた、レベルの高い、研究書、であると思った。
私は、この本は、非常に「重要」だと思っている(書かれた論文は、70年代くらいが多いようだが)。
それは、なぜかと言うと、この本が、明治からの、日本の植民地政策を行っていく、軍隊を中心としたその、「構造」、を明確に示そうとしているからである。

あの「神国日本」の歴史の真実というものは何であったのか。
一九四五年八月一五日を、長野県では軍国主義を鼓舞することで鳴り響いていた旧制の野沢中学校で迎えた著者は数週間後、一階の一年生の教室で、それまで教えこまれていた教科書を塗りつぶした。二階の二年生の教室で同じ体験をもち、作家としての原点をそこに据えたのは井出孫六である。のちに同級生となった井出と著者はそれから三十年後、おたがいが抱いていた「興味の近さ」を確認しあった。
「遺恨だね、近代に対する遺恨をはらすために生きているようなものだ」。

戦艦大和の最後、というのがありましたが、あの戦争で亡くなっていった、多くの日本人が、「なぜ」、カミカゼという、みずからの自殺行為を、選んだのか。なぜ、自分の生の継続を選ぶことなく、死を潔し、としたのか。
それは、一言で言えば、「後世」の日本人に賭けたんですね。後世の日本人たちがきっと、なぜ、自分たちが、このような戦いにまきこまれ、死んでいかなければならなかったのかを、きっとつきとめてくれる。そして、この経験を、後世の糧としてくれるはずだ、と。
多くの人たちが、この大戦の間、貧困に苦しみ、暴力の果てに、死んでいきました。
しかし、それには、そうならなければならなかった、原因があるはずです。ということは、それを避けるための、知恵があったはずなのです。
ということは、どういうことか。
私たちは、この日本に生まれた落ちた最初から、まさに、カントの至上命令のようなものによって、「命令」されているのです。
私たち、日本人の末裔は、なんのために生まれて来たのでしょう。
まさに、あの大戦の「真実」を、みつける「ために」生まれてきたのです。すでに、私たちの中には、その至上命令が、ア・プリオリに、刻まれているのです。
由井史学、をご堪能あれ。
前回は、伊藤などによる、憲法制定の過程を検証する本の紹介でした。この頃から、山県有朋、の、軍専政治、を強行に主張する傾向が目立つが、いずれにしろ、決定的な、ターニングポイントが、日露戦争終了直後、であることを理解する必要がある。
ここから、日本政治の主役は、「軍部」、になる。
その意味を、よく考えなければならない。

その結果八月に駐剳軍参謀林鉄十郎は、「威圧を主とする当今の韓国操縦に対しては軍司令官の権能をして公使の上に立たしむるに非ざればわが政策の実行は不可能なり」(谷寿夫『機密日露戦史』)との意見を大本営に提出した。

朝鮮、満州、は、この時点から、完全に、シヴィリアン・コントロール、の外になったのです。これ以上に重要なことはありますでしょうか。この地域の、官憲による、支配が、ここから始まるわけです。
この意味をよくよく考えなければいけません。言ってみれば、この地域は、日本の国会の支配の外で、その地域の形だけの、政権を傀儡として、軍隊が「好き放題」やっていた。この地域を合わせて、日本の国土の、七割、あるわけです。それだけの地域が、完全に「日本軍」の好きにできる、言わば、「私有地」のようなものになったということなのです。
日本の軍隊はその時点で、たんなる、日本の一官僚組織、ではなくなったのです。日本の一つの、パワーポリティクスの、一角となったのであって、簡単に彼らを、命令できる機構は、もう、日本のどこにも、なくなりました。
あの時代、これだけ大きな権力をもった組織が、日本にあった、ということなのです。それだけの組織が、敗戦によって、アメリカ占領軍によって、「解体」されました。今、さかんに、日本の再軍国化を叫んでいる連中は、ほぼ、このルートを震源としているでしょう。彼らは、この、あまりにもの、権力の消滅、を受け入れられない。意味が分からないのでしょう。あれだけの、強大な権力を自分たちの手中にしていたのであって、なぜ、たかだか戦争に負けたくらいで、これだけの旨味を手放さなければならなくなったのかが、理解できないのです。こんなことになるくらいなら、たとえ、本土決戦によって、本土の日本人が、かたっぱしから、米軍に斬り殺され、沖縄と同じように、一人残らず、集団自決、を行うことになろうと、敗戦を受け入れるなど、ありえなかった、という感じでしょうか。今でも、天皇とその一部の取り巻きの文官によって陰で密かに進められた、あの、敗戦受諾、の陰謀を、絶対に許せないと思っている連中なのでしょう。
それだけの、満州、朝鮮、という広大な土地の、うまみは、すさまじかったのです。
では、その後の、軍隊以外の日本を今までコントロールしてきた、天皇を始めとする、シヴィリアン組織は、一体、どうなったのでしょう。

満蒙独立運動があきらかにしているのは、軍部が政府をこえて独自の立場から侵略的冒険政策を推進するのにたいし、政府・外交当局はこれに追随し、依存しながら利用しようとしたということである。

以前、三島の小説で、ヒトラーとレームのやりとりを紹介したが、その中で、軍が、ヒトラーの主張を、まったく聞こうとせず、逆に、暴力によって、「脅し」てくる場面がありましたが(そのことに、ヒトラーは恐怖すると同時に涙するわけですね)、三島はよく、おもしろい場面を描きますね。
近代暴力組織にとって、その暴力装置の整備を、シヴィリアンによる税金の投入によって、ある程度達成した時点で、もう、シヴィリアンの命令に従う理由はないのです。なぜなら、そのシヴィリアンをかたっぱしから、ぶっ殺す手段を、唯一もっているのが、自分たちだけなのですから。日本は、刀狩以降、市民の側に、武装防衛、という権利を放棄し続けています。しかし、アメリカなどは、州兵をもっていたり、個人の拳銃所持が今でも続いているわけです。
あのヒトラーでさえ、もう、軍隊の意向に逆らっては、なにごとも、行うことができなくなっていたということ。この問題は、現代においても、まったく、解決などされていない。それは、東アジアの各国がどこも、潜在的な、軍事クーデターの可能性を無視できずに今に至っていることからも、よく分かることでしょう。
さて、朝鮮、満州、を自らの「もの」とした、日本の軍隊組織。これだけの、絶大なパワーを手中にした、彼らが、ひるがえって、その後、国内で目指したものは何か。

総力戦は国民の自発的積極的な戦争努力を不可欠とする。したがって民主国家においては戦争準備の段階であらゆる啓蒙活動を通じて戦争目的への国民の協力を呼びかける。ところが日本の場合は、もともと戦争計画が国民と無関係に軍部によって作成されている状態のなかで、国民の精神的団結つくりだすためには、観念的な国体論の鼓吹と、反体制的組織の力による排撃を伴わざるをえないのである。

大戦後の日本軍隊は各国の近代化された軍隊と比較した場合、編成装備の点でまったくたちおくれていたことはいうまでもないが、第一次大戦で欧米列強が厖大な大衆軍を動員したのにたいして、日本はその準備がまったくなかった。

つまり、それまでは、言っても、貴族的な軍隊だった、ということなのだろう。
おりしも、大正デモクラシー軍縮が叫ばれた時代。軍が考えていたことは何か。
国家総動員
国民全員。国内のあらゆる人、その末端までが、この戦争に「従軍」する。
「大衆軍」。
これは、どうやったら可能になるのか。
こういった問題意識を早くからもっていたのが、宇垣一成、ですね。彼の、青年訓練所構想は、大正デモクラシーの雰囲気の中、彼の意図したほどのものには、ならない。
しかし、その後、満州事変、関東大震災天皇機関説事件、マスコミの発展、などを経て、在郷軍人会(青年所)などとして、結実していくわけです。
問題は、その、宇垣一成、のヴィジョンが、大正デモクラシーの牧歌的な雰囲気の頃から、長い時間をかけてでしたけど、隠微に、浸透していくなかで、その背景として、存在したものが、圧倒的な大陸における、軍隊のパワーポリティクスだということなんですね。
ここには、(E.ホッファー的な)大衆運動論的にも、大変、興味深い問題があるんだと思います。あの、大正デモクラシーの牧歌的な雰囲気が、実に、簡単に、こう、ウルトラに突入していく。
ちょっと関係ないですけど、安倍晋三政権のとき、高校卒業から、大学までの半年のボランティア構想というものがありました。もちろん、本人の意図は、徴兵制と言いたかったわけでしてね。その間、自衛隊入隊させよう、という目標があって、その中間段階として、この、ボランティアを提唱したわけですけどね。
どうです。宇垣一成、に似ているでしょう。
しかし、国民の圧倒的な、総スカンによって、この構想は頓挫したばかりか、ここから、国民は、安倍に完全な三行半を下した(実際は、そこまでの、反対でもなかった印象でしたけどね)。
こいつは、小泉、じゃない。
別の、なにか、だ。
こいつがさかんにもちだす、おじいちゃんの岸こそ、満州と深い関係をもつ、安保闘争の頃の、戦後総括を象徴する中心人物だったわけで、国民は、この、昔の、青年訓練所、を思い出させる政策に、うさんくさいものを感じたのであろう。
国民は、あの頃を、忘れてなかったのであろうか。

軍部と民衆統合―日清戦争から満州事変期まで

軍部と民衆統合―日清戦争から満州事変期まで