T.W.ケルナー『フーリエ解析大全』

1996年の翻訳。
代数学の、一つの頂点は、間違いなく、オイラーの公式、であろう。これほど美しい、エレガントな結果もない。
この、オイラーの公式、の関数版が、フーリエ変換、であると言えるであろう。
フーリエ級数は、工学系の人たちは、よく、計算に使っているはずである。
フーリエ変換は、コンピュータでもよく使われる。かけ算、というのは、複雑で、計算にのりづらい。それを、フーリエ変換で、いったん、足し算、の世界に移してから、その特徴を解析して、フーリエ逆変換、で戻せばいい、という考えということだ。
フーリエ解析、の特徴は、これ以上ないのではないかというくらいの、理論の美しさ、である。これほど、きれいな理論もめずらしい。数学の結果など、大量の仮定をごちゃごちゃ書いてやっと、それらしい結果が言えるようなものばかりなものだが、実に、すっきりしている。
フーリエ解析は、実に、多くの応用が知られている。
掲題の本は、実に変わっている。これはなんなのだろう。その辺りは、訳者の、高橋陽一郎さんが、前書きなどで、いろいろ書いている。

線形性という概念のもたらした衝撃は、ヘルムホルツ(Helmholtz)の次の有名な一節に忘れがたく表現されている(On the Sensation of Tone, Chapter 2, translated by A.J.Ellis)。
「実際、誰でも高いところから広い水面を見渡すことがあれば、互いにぶつかり合い、交差し合う波の重なりの多様さに気がつくはずである。季節風の後の穏やかな日に高い崖の上に立って海面を見るとき、それは最も印象的である。まず、大きなうねりがはるか彼方から岸に向かって一定の間隔で押し寄せてくるの目に入る。あちらこちらの白く泡立つ波頭はその長く伸びた横一線を際立たせる。岸からはその曲折に応じて波が打ち返し、押し寄せる波を斜めに横切る。航中の船はくさぎ形の航跡を残し、魚めがけて飛び込む鳥は丸い波紋を描く。観客の目は大小、高低、直曲とさまざまに異なる波の系列を容易に見分け、何か別の力で水が動揺しない限りは、同じ形で海面をそれぞれに進む様子が観察できる。この光景を注意深く眺めるたびに、いつも私は不思議な知的な喜びを覚える。それは、水平線の彼方まで広がる大洋の波に関して、一連の複雑な議論の助けを借りてはじめて理性の目が把握できることを、生身の目に直接に映し出す。」

なんとも言えない、印象的な、美しい、文章ですね。よく、こういったものが、数学の本に、普通に出てくるものだな、と。
波を、線形性、の視点で眺めることを、フーリエ級数、というわけだが、こうやって、大きな波や小さな波が、どんどん、「重なっていく」、...。
さて、その重なった、「無限の彼方」、には、どんな形になるのか。これが、有名なカントールの結果ですよね。あらゆる「普通の」連続関数は、フーリエ級数、で表現できる、という結果を、みなさんは、どんなふうに思われるでしょう。
私には、ある意識の革命を、どこかで、多くの人に、与えるのではないかと思うのです。
ちょうど、量子力学の、粒子と波、の二律背反、を思い出させますね。
私たちは、この世界を、ある「形」、粒子の剛体、のようなもので構成されている世界をイメージする。学校に行けば、教室には、友達が多くいて、先生が入口から、入ってきて、授業が始まって、...。
しかし、その視点は、がらっと変わる。友達は、多くの「波」が重なり合って、あの「奇跡」のような素敵な笑顔を、自分にふりまいてくれている、...。この世の中が、どんどん、「波」が重なりあって、その形を示していると、どうして考えていけないのか(数学的には、上記にあるように、そう考えることも「正しい」ことを、保証してくれているじゃないか)。
そんなとき、上で引用した、なんともいえない、美しい、光景が、毎日、ながめているこの普通の景色に重なり、ただただ、なんとも言えない気持ちになる、...。

フーリエ解析大全〈上〉

フーリエ解析大全〈上〉