ジュリアン・ハヴィル『世界でもっとも奇妙な数学パズル』

数学の、紹介書、には、いろいろなパターンがある。
いわゆる、教科書、と呼ばれているものは、すでに、その「分野」というものを自明として、その、入門を目指すものである。これは、この入門によって、次の、専門誌の論文を読みこなして、この分野の入口に立つための、道案内を目指しているもの、である。
もう一つは、もっと、一般向け、の書物である。こちらは、上記のような、この「道」を目指す人でない人たちに、この世界の臭いを感じてもらうことを目指して、行われる。
もう一つは、言ってみれば、「歴史書」である。歴史的に、どのように、数学は変遷(= 進化)してきたのか。ここに、各数学者の、人物伝記(= 史記の英雄列伝のようなもの)を加えてもいい。
実は、もう一つ、こういったものとは、まったく違うものがある。
それは、なんと呼べばいいのだろう。「貴族的」、とでも言いたくなるものだ。
ケルナー『フーリエ解析大全』は、そんな雰囲気をもった書物であった(その辺りについては、訳者の、高橋陽一郎さんがさかんに書いていた)。
なんと言うか、傲慢なのだ。読者が、どんな知識をもっているのか、どんな分野に精通しているのかを、どう考えても、気にとめていない。もしかしたら、少しは考えているのだろうが、ずいぶん、楽天的である。分かる人には分かる。しかし、じゃあ、どこまでも、マニアックかというと、そういうわけでもない。それなりに、読める。とにかく、雰囲気は伝わる。
書きぶりが、エッセイ、に近い、といえるであろう。エッセイの特徴は、その議論が、たんなる、日記でない、ことである。自分に向かって書くわけではない。つまり、どこか、「普遍的」なことを書こうという、著者の意図を感じる。
そんな雰囲気は、掲題の本にもある(同じ、イギリスの学者だそうで、イギリスの伝統や雰囲気を感じさせるものがあるのかもしれない)。
掲題の著者にとってのその普遍的な関心とは、以下だ。

前著(Nonplussed!)では、いろいろと直観に反する状況を集めたが、本書では、そんなことをするのを許していただければ、理性を混乱させる、さらに18の数学的現象について述べる。前著と同様、選択の基準は、最新のものでも遠い昔のものでも、著者を驚かせたかどうかだ。

さて、著者は、はしがきで、一発、かます

  • 地球をしばったロープを、1メートルだけ、伸ばす。隙間は、スイカで同じことをやったのと同じ(16センチメートル)。

この事実は、なんのことはない、小学校の数学で確かめられる。こうなるように、定義しただけだが、意外に思われるようだ。
こんな調子で、さらに、深く興味深い結果が、続く。

  • ある部屋に何人かいて、みな、赤青、どちらかの帽子をかぶってる。みな、自分がかぶっている帽子の色を知らないが、ほかの人のは知ってる。定期的に鐘が鳴っていて、自分が何色かが「分かった」ら、次に鐘が鳴ったら、この部屋を出る、とする。今、赤が15人とする。突然、ある人がこの部屋に入ってきて、「少なくとも一人赤の人がいる」と告げた、とする。すると、そこから、15回の鐘の後には、赤全員が、部屋を出ている。

[確率過程、を思わせる、おもしろい例ですね。]

  • ある会社が、455人の求人のある工場を開く。事務職は70人の定員で、男性200人の応募(採用15%)、女性200人の応募(採用20%)。製造業は、男性400人の応募(採用75%)、女性100人の応募(採用85%)。つまり、どちらも、採用された比率は女性の方が多い。ところが、政府は、女性の58%が断わられ、男性はたった45%だ、と言う(つまり、女性差別で、法律違反、なんだと)。

行列式は、加法性、を保存しない、というわけだ。]

  • 体積は有限だが、面積は無限大、の立体、が存在する。

[立体と言っているが、もちろん、無限に「突き抜けている」わけだ。]
ゼノンのパラドックスとして、アキレスは亀に追いつけない、というのがある。一般には、数学的に自明と説明されるか、やっぱり、矛盾は残ると言う人もいる。
それは、(この場合は、「カウントする」という)アクション(試行)というカテゴリーの限界を示唆していおうとしているのだろう。私は、量子力学のところで紹介した、プランク定数を使った説明が気に入っている。少なくとも、プランク定数より、「近い」ところの、「運動」なんて、だれも記述に成功した人はいないんだからね。
バナッハ・タルスキーについては、自由群の性質と、3次元回転群の既約性をうまく使って、選択公理を本質として、成立する。
選択公理は自明であろうか。
靴がかたっぽあったとする。その、あいかたを、「選ぶ」ことができる、というのが、選択公理、である。ここのキモは、「どんなバケツからでも」、というところにある。どんなバケツだろうと、そこに少なくとも一個は靴があるんでしょ。だったら、やりゃーいーじゃねーか、ぐずぐず言ってねーで、と思うだろう。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみよう。私たちは、バケツの中がどうなっているのかの話をしていないのだ。そりゃ、こいつが具体的になってるのなら、「その中のコレ」とか言ってとれそうだが、まだ、なんにも決まっちゃいないわけだ。
困ったことに、現代数学は、選択公理、のオンパレードである。あらゆるところで、使われてる。これなしにすますわけにはいかない。
でも、バナッハ・タルスキーって、地球を有限個に分けて、それぞれ、並行移動、回転、したら、スイカ、になるって話でしょ。こんな結果を許しておくようなもの、いつまで、そのままにしておくの?って感じですよね。
ただし、選択公理が、現在の形式体系において、「独立」であることは証明されている。無難なところは、ある程度、可算な集合においてのみ、選択公理、を認める、といったところなのだろう。
ただ、これについても、同じような説明をしてみたくなる。問題は、有限個に分かれた「図形」である。これを、普通の三角形のようなものだと思うと、大変なやけどをする。なんだか、わっかんねー、「点」の、ちらばり、そのものである(さっきも言ったように、この点の選び方なんて、「ない」んですからねー)。もともと、こんなプランク定数無視の、数学モデルで、どんなことが起きてよーが、この物理学的世界は、安泰ってわけだ。
最後に、確率論について、ふれておこう。
確率論を勉強すると最初にでてくる、ベルトランのパラドックス、というのがある。同じことの確率が、1/2、1/3、1/4、と三つ計算できる、というやつだ。どうして、こんなことになるのかは、普通は、その、確率空間の定義を、まともにせず、ぼかしているからだ、と言われる。
なぜ、多くの人は、このことを不思議に思うのか。
一言で言えば、確率が、直感的でない、ということなんだろう。

あらためて言うと、確率や統計は、直観に反することの宝庫であり、本書のおよそ半分はこれで占められる。

私は、人類は、今だに、確率の定義に成功していないんじゃないか、なんていう、だいそれたことを言いたくなるときがある。あまりに、「変」なのだ(では、また、別の機会にでも)。ドストエフスキーの小説じゃないですけどね。
いろいろと、ごちゃごちゃ書いてきたが、最初の引用にあったように、私は、ここに、カントに始まる、アンチノミーを見る。
人間の直観が、理解することを拒否する事態。
カントは、その、理性の限界を確定する過程で、幾つかのアンチノミーを議論した。しかし、あれは、あれで、終わりなのだろうか。
いや。
今でも、カントの理性批判は続いているのだ。それが、人間の理性の限界に迫るものなら、どうして、この運動が終わることがあろう。
終わらない世界。
「啓蒙」は終わらない。
いつまでも、いつまでも、近代、こそが「問題」だという...。

世界でもっとも奇妙な数学パズル

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