さらちよみ『ヒのカグツチ』

(一つ前に、非常に重要な問題をとりあげただけに、その後、こういった、「どーでもいー」ことを書くのは、少し、気がひける。自分にはまだ、時が熟していないのだろう。自分の非力をわびたい気持ちだ。いつか、その日が来るのを待つしかない、そんな気持ちです...。)
電撃コミックといって、アスキー社がだしている、月刊誌のマンガ(、とのこと。詳しいことは、まったく知らない)。
とりあえず、一、二巻をみてみた。
古事記を題材とした、マンガとなっている。
主人公の、蜂谷レイ(はちやれい)は、生まれてすぐ、母親が亡くなり、父親には、5歳で捨てられ、兄と施設で生きてきた、高校生。退学して、行方不明の兄を探している最中に、とある神社に立寄るところから、話は始まる。
この作品では、イザナギノミコト、イザナミノミコト、の国生みが題材となっている。その神社で暮らす、人々は、現神(あきつみかみ)、と言い、それぞれの「神を内に宿す」存在とされてる。彼らは、全国に存在していて、荒神(あらがみ)と呼ばれる、イザナミイザナギへの恨みを震源とする、あしき神々、を「封印」し、この国を渾沌から防いでいる存在となっている。
主人公の、蜂谷レイは、この神社に来ることで、自らの現神を見出すのだがそれが、「ヒノカグツチ」、つまり、古事記での、イザナギイザナミ、の国生みの最後に生まれた神を宿す、存在となる。彼は、他の現神は、荒神を封印することしかできないが、彼は、浄化、つまり、元の現神に戻す、そういった能力をもつ存在と描かれる。
ずいぶんと、こうやって説明すると難しくなるが、内容は、いたって、「フツー」の少年ジャンプ的、はちゃめちゃ、バイオレンスアクション、学園物。こういう、若い人たちの、明るさがね。たとえば、主人公は、かなり、複雑な家庭環境を背負う存在として設定されているわけで、本当はもっと、複雑な感情があるわけですね(ですから、むしろ、こういう超能力物を、そのまま、受け止めてはいけないんですね。むしろ、これは、主人公の「空想」なんです)。しかし、一貫して、「明るい」。それは、クール・ジャパンなのか(普通、明るい、とは、幸福を意味する。しかし、もう一つある。「道なき道を行く」こと)。
さてこの、蜂谷レイが、最初に出会う、現神こそ、「アマテラス」をその現神とする、同じ年齢の、高天湯里(たかまゆり)。彼女は生まれたときから心がなく、母親は、その子供の無感情な姿に耐えられず、彼女を捨てる(つまり、この神社に預ける)。
私は、変な表現だが、日本の、このアマテラス信仰というのは、かなり、根深く底辺においては、もたれているのではないか、と思う。本格的には明治からだったとしても、戦後から、これだけの年月が流れている。
だから、戦前を知っている人びとにとって、こうやって、アマテラスが、サラッと、描かれる、他の神々との優先的関係もあいまいなまま描かれていることに、少しどきっとするわけです(確実に、戦中なら、禁書どころが、牢獄行きですよね)。
しかし、どうしても解せないのは、天照大神って、女性、ですよね。戦中は、儒教道徳の時代ですから、当然、男性中心ですから、小学校などで、どうやって教えていたのか(きっとこれも、タブーだったのでしょう)。儒教における、男尊女卑は、むしろ、血族というものをとらえる上での、構造の問題、なんですね。だから、その構造においては、「微動だにしない」。
ところが、日本においては、むしろ、本居宣長が発見したと言ってもいい、そういった「漢心(からごころ)」に対蹠するように、古事記的な、いや、もっと言えば、卑弥呼的な、日本の、古代社会を、「発見」していく。すると、わかってくることは、日本の、太古の社会は、かなり、両権的な構造がみえてくる。つまり、日々の治安の維持や、税の徴収を行う官僚機構としての、男性の王、という一方の極がありながら、いや、むしろ、そちらの「正当性」の源泉を与えているかのような、まさに、彼ら国王たちが「そっせんしてぬかづく」対象としての、「ひめみこ」的な、女王の存在がみえてくる(卑弥呼とは、そういった存在に対する総称であることを理解しなければなりません。一人の女性の名前じゃないんですね)。
日本の権力構造が、その後の飛鳥時代に、一見、巫女的なものが、輸入された、儒教を中心とした、律令的権力ピラミッドの見た目からは、消されているようにみえても、その源泉とされているような、感情とでも言うようなものは、続いているのではないか。
たとえば、最近でも、女性天皇に対して、まったく、国民に、反対意見がなかったのは、驚きの一言であった。一部の、儒教的道徳観から、まったく離れられない、トンデモ科学にやられてしまってた、八木とかいう、ミトコンドリア信者ぐらいだったではないか(もちろん、継承者のめどがたつなら、どっちでもいいというのが、今の国民の正直な反応なのだろう)。
そして、戦後の、美智子さんから、最近の、雅子さん、その娘さんまで、ずっと、国民の熱い視線を集めてきたのは、女性の方であった。
さて、高天湯里、が、「心がない」、話に戻ろう。心がない、この作品の、(途中であるが)真骨頂は、この、「アマテラス」を無感情、の女性としたところにあるだろう。
一般には、感情とは、いかに「コントロール」するか、そういったなにか、と考えられている。例えば、最近紹介した、江戸時代の儒官の佐藤一斎は、「恥ずかしい」という表現を使う。つまり、恥という概念は、江戸時代も一般的だった、ということなのだが、儒教でも、その感情をどうコントロールするか、つまり、抑えるか、がポイントとなってくる。しかし、エヴァンゲリオンの、綾波レイにしても、彼女たちの、その感情のコントロールは、一見、感動を呼び、人を引き付けるが、むしろ、作者の側としては、そういう感情の「ない」存在なんだ、と言いたいわけだ(綾波レイは、テレビ版では、むしろ、ロボット、シンジの母親のクローンとして描かれたわけだった。今回の映画版では、そこを変えてきそうな雰囲気もあるが...)。
コンピュータの世界でも、人口知能といって、かなり、進化論的な、人間的な、学習能力を加えた「知性」に迫っていけてるのだが、では感情とは、なにを意味しているのか。言語学では、それは「形容詞」の問題となる。形容詞は、お分かりのように、完全な「無定義用語」である。ほとんど、何も言っていないに等しい。定義になっていないのだ。しかし、形容詞には、はっきりとした、一つの役割がある。それは、ある傾向について、それが「どれくらい」なのかを、明確に指示すること。
いかに作者が、そうやって心の「ない」存在と描こうとしても、読者は、そこに心を見出そうとする。なぜなのか。つまり、「アマテラス」とは、こうやって、日本の近代史にとっても、特別な存在であったわけだ(そこが、作者の狙っている所ってわけだ)。
心がない。いや、もしかしたら、彼女は、その感情を抑えているのかもしれない。そこには、燃えるような、なにかがあるのかもしれない...。
(まあ、下世話に言えば、ツンデレ、ですか。もうやめましょう。)
マンガという表現は、今、一つのターニングポイントに来ているのではないか。それは、グローバルスタンダードを考えるなら、これほどの、ロリコン少女愛少年愛、は、完全に、PCだから、ですね。しかし、多くの日本のクリエーターたちは、その辺りを、想像の源泉としてきた。
しかし、アキバの、コミケなどの、オタク文化は、かなり、性の(表現の上での)解放が進み、かなり、小さな子供を、表現の一つとして使い始めている。
日本人は、まさに、ガラパゴスで、性について、誤解している。世界の標準的な、倫理的基準は、子供を中心に決定されている。子供に、性的な猥褻物に触れさせないことが、全ての判断の一線なのであって、大人が、「恥かしい」とか、そういうのは、奥行かしい、日本的感情ではあっても、本質的とは、されていない(それは、どちらかと言うと、暴力に関係してくる)。
今後、どういった風潮になっていくのか、予断を許さないのだろう。

ヒのカグツチ 1 (電撃コミックス)

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