山田昌弘『迷走する家族』

私は、ちょっと前に、自殺保険という表現をした。しかし、これは、少し正しくない。最近も、法律は改正され、生命保険は、2年以内というガードをかけて、保険金支払いのガードをされていると言う。当然、業界も、さまざまな問題に、無関心ではおれない、ということなのだろう(しかし、私には、この問題にそれほど、本気でとりくみ、その取り組みをパブリックに発信して行っていると言うには、難しく思うが)。
これと関連して、今の、民法テレビのお昼は、こういった関係の、CMで埋め尽くすされている、ということを指摘したが、それは、私が最初に気付いたということではなく(気付くだけなら、日本中の人がテレビを見れば気付く話だが)、videonews.com の神保さんが、番組で昔よく言っていた、ということで、でも、彼がそのことを言えたのは、彼の番組がマスコミ関係でありながら、アメリカの小規模のジャーナリスト関係に似た、ビジネスモデルで(実際向こうの、大学や大手マスコミの出身の方ということらしい)、比較的そういった、広告主から自由な関係になれる立ち位置にいるから、そう発言できた、という面はいなめない。
あれだけの、広告をここ何年も、続けて、うたれたら、民法各社は、完全にタブーとなるのは、しょうがないだろう。しかし、それでは、政治的問題は、永遠に、「棚上げ」やむなしと言うのと変わらない。大手マスコミは、この問題に、今まで、本気で取り組んでこんかった「つけ」と言ってもいい。どうしても、広告は、お金と関係せざるをえないわけだから、そこには「権力」が発生する。であるなら、自分たちの正当性を担保するためには、ある一定の広告主からは、ある程度、期間を空けてしか、受け取らない、など、それなりの、仕組みを作る必要がある、ことを意味している。
マスコミの話は、これぐらいにして、そもそも、この問題は、どのように研究されているのだろうか。しかし、この問題とは、どの問題なのだろう。だめだ、質問になっていない。つまり、これは、「家族」というものについての、その関係について、言及しているということの共通前提がないと、話はどんどん混乱してしまう、ということなのだ。
たとえば、掲題の本で、どのように扱われているかと言うと、以下の「たったの」一行だけしか、見出せなかった。

中高年男性の自殺には、失業したサラリーマンや事業に失敗した自営業者が、住宅ローンや借金を返済して、「豊かな家庭生活」を守るためにとった最後の手段というケースが多く含まれていると解釈している。再就職や再出発の見込みがなく借金を抱えた夫は、戦後家族モデルにとっては無意味な存在となる。日本では自殺でも死亡保険金が出るので、住宅や将来の生活資金は家族(妻子)に残せるという理由で自殺を決断すのではないかと推測している(スウェーデンでは自殺では生命保険金がおりないという事情で、不況と自殺数の統計的相関関係は観察されない)。

少し前にも書いたように、これは「不況」にならなければ、なんの「問題」もなかったはずなのである。しかし、そもそも、経済とは、言わば、経済という「メカニズム」が常に生み出す生理現象のようなものであり、好不況を繰り返す、スクラップ・アンド・ビルドを、繰り返し、その「健全性」を維持するシステムなのであり、「不況」は一つのその業界(この世界)の、次のステップへ進むための、橋頭堡なわけだ。であるなら、これこそ、日本経済のエンジンだった可能性もあるわけで、泣き喚くことは必要だったとしても、十分ではない(こういった、極限状況においてこそ、人はその器量を試される。悲しいことだが、なんにせよ、人間は、冷静であらねばならないようだ)。
それにしても、なぜ、家族の問題をとりあげるこの本に、この一言しか、書いていないのか。そこに言わば「すべて」がある。
なぜ、この日本において、あれほどの、昼間っからの、宣伝となっているのか。もちろん、多額の国民の個人資産が、まったく、流動しない、この事態が、「魅力的」だから、と考えていい。つまり、日本の特殊性と関係している。日本の、特殊な、金融政策は、世界中から、常に、指摘されてきた。世界中の住宅バブルは、日本の特殊な低金利政策によって、まさに、「錬金術」として、認識されていた。韓国を始め、アメリカと、どこの国も、この日本の金融の特殊な状況を使って「バブル」と化していたわけで、日本こそ、世界の「ガン」の元凶と考えられていた面もある。
そんな日本において、よく言われるのが、日本の労働生産性の低さ、である。しかし、そもそも、上記にあるような、金融的事情が違うわけで、一概に、日本の労働者を無能呼ばわりすることは、実体に合っていないだろう。
今必要なのは、日本特殊論ではなく、世界で何が起きているのか、でなけばならない。
一言で言うなら、それは「高齢化」である。
中国を含め、世界中で、高齢化、が進んでいる。フランスにしても、アメリカにしても、人口が増えてると言っても、多くは、移民を受け入れているからにすぎない。確実に、高齢化は、どこの国でも進み、世界は「新たな局面へと突入する」。
産業界も、はっきりと、その未来の姿を現し始めている。アメリカでも、その底辺では、むしろ、「だれでもできる安い仕事」を、多くの人たちが、微妙なバランスの元、さまざまに関わり合って、パイを分け合っている、そういう実体が見えてくる一方、一部の成功者たちの豪遊ぶりが「セレブ」と称して、さかんに宣伝される。
私は、近いうちに、世界中で、もう一回、「貴族」というのが、復活するのではないか、と思っている。それは、アフリカや昔の日本における、一夫多妻制度のようなものをイメージしているのだが。多くの女性は、「ある男」を愛することに興味がなくなっている。欲しいのは、自分を一生「飾り」つけてくれる相手であり、自分の生んだ子供が一生、食べ物に困ることがなくなることでしかない(しかし、生まれてきた子どもが、ただ自分が一生食事に困ることだけを、生きがいとするかは、別だと思いますがね)。そうすると、「ある男」である必要はない。
もうそこには、愛は必要なくなっているのである。
しかし、こういった傾向も、こと「高齢化」という世界的なトレンドのなせる技と考えるなら、納得できる。
つまり、こういった問題は、「家族」をどう考えるかであったはずであるが、そういう意味では、掲題の本は、期待外れとしか言いようがない(一言書いてあるだけ、ましか...)。

迷走する家族―戦後家族モデルの形成と解体

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