スディール・アラヴィ・ヴェンカテッシュ『アメリカの地下経済』

私は、今この本を、たいへん興味深く読んでいる。
著者は、アジア系の人であるが、シカゴ大学の大学院の頃から、シカゴのサウスサイド地区のゲットーを、論文に書いていた、という。しかし、ゲットーとは、ワーキングプアがっ長い間そこから抜け出せないまま、停滞している地域である。
そんな彼も、1990年代になる頃にはむしろ、その近くのある、百ブロックほどのコミュニティに興味をもつようになっていた。彼は、仮にそこを「マーキーパーク」と呼ぶ。

不動産市場と労働市場に根強く残る人種差別のせいで、隣接する市内の多くの地区、ことに白人の多い地区への黒人の転入や居住が拒まれた結果、エリートから南部出身の貧困層まで、多様なアフリカ系アメリカ人が同じ地区に集まり、ストリートでも家でも家のなかでもひしめくようにしてそれぞれの生活を営んでいた。そこは「都市のなかの都市」だった。

(貧しいのだろうが)多くの人たちが集うこの地域は、ゲットーと違い、活気があった。このコントラストから、著者が興味をもつのは、時間の問題だったのだろう。
最初は、彼も、今までのように、若いストリートギャングたちの、生態に興味をもち彼らを追っていく。彼らの生活は言ってみれば、ぶらぶらしているだけ、のようなものだ。著者も、暇だったのだろう。さまざまな、現地で出会う人たちと、知らぬまま接触していくようになっていた。
すると、著者は、ある時期から、ある「重大な」事実に気付いていく。

まもなく私は気づいた。このコミュニティは、若者から年寄り、専門職をもつ物から困窮者まで、雑多な男女が集まっているようだったが、じつはほぼ全員がこの地区をすっぽりと覆う目に見えない巨大なネットワークで結ばれている。地下経済のネットワークである。それを通じて、町医者は往診した家庭で診察代がわりに料理をふるまわれる。売春婦は食料雑貨店の店主にサービスし、ただで食料品を手に入れる。やり手の警察官はギャングのささいな違反を見逃してやり、見返りに情報を仕入れる。店主がホームレスを店に泊まらせるのは、警備員を雇うと金がかかりすぎるからでもある。

ゲットーのワーキングプアや、ギャングたちを中心に追っていた彼は、そこでの、暮らしを通じて、「どうも違う」ということに、気付いていく。
言わば、彼は、そういう「特別な」人々を「対象」として見る、研究する、ということを考えていたわけだ。彼らには、どんな特徴があって、どんな傾向があって...。しかし、そもそも、そういう分類自体が、うさんくさく思えてくる。
それはどういうことか。
よく、経済は二つある、という。表の経済と、裏の経済。しかし、一体、だれにその「境界線」を指摘できるであろうか。だれもが、少なからず、闇と関わっているし、そもそも、それは闇と言うべきものなのであろうか。つまり、さまざまな意味で、あらゆることは、グレーなのだ。

マーキーパークでこうした商品やサービスを提供する人々は、ビッグ・キャットのような札付きとはかぎらず、また裏社会だけで商売をしているのでもない。地下経済のあいだを自由自在に行き来している者がたくさんいる。そして、そういう人がマーキーパークのコミュニティの柱になっているようだ。まず、オラ・サンダーズのように、よく知られた事業者だが、このところ商売が振るわない者がいる。彼らは手っとり早く収入を捕えるチャンスがあれば、利用せずにはいられない。そこで店をギャングや闇商売をしている者に貸す。新手の商売を考え出して現金を手に入れるが、その収入は申告しない。課税対象になる所得が発生しないように、サービスの対価をサービスで払ってしまう者さえいる。それからウィルキンズ牧師のように、郊外から通ってくる裕福な信者をもたず、近隣に住む貧しい人や非行少年、社会の底辺の人、恵まれない人、犯罪者などの相談相手や慰め手になる宗教指導者もそうだ。彼らは社会から忘れられた人々に慰めと安らぎと助力をあたえ、寄付金の出所は詮索しない。さらに、地域に銀行が一つしかないため、現金が自由になる者なら誰でも金の貸し手になる。ただし、そうした金貸しは法外な利子をとるため、地域経済の柱というよりも必要悪と化している。そして、警察官や役人も地下経済と無関係ではない。彼らは住民が合法経済の外で生きていることに理解を示し、ジェイムズ・アーリーンダーがもぐりで自動車修理をしても逮捕しようとしたり、商品を没収したりもせず、かわりに商売人同士の争いを内密に処理してやる。麻薬を売る十代の若者をいきなり刑事司法制度のなかに放りこまずに、刑務所の恐ろしさを教えて更生させようとすることもある。商売人、密売人、客、仲介人など、どんな立場であれ、地下経済になんらかのかたちで関わらない人間をマーキーパークで見つけるのは難しいだろう。
人と物とサービスがこれだけ錯綜してくると、マーキーパークの地下経済がいったいどこからはじまってどこで終わるのかはわかりにくい。道徳を説く者もいるが、この街を暴力に満ちた恥ずべき汚い無法地帯、誰もが納税し、法を尊守し、争いの解決と秩序の維持を政府に委ねる清潔な世界の汚点と決めつけては、「裏の」経済を本当に理解することはできない。地下経済社会は伝統的な道徳観など鼻であしらわれてしまう危険な世界だが、合法社会との境界線は思うほどはっきりしてはいない。さらにいうなら、地下経済に関わっているのは特定の階層の人間ばかりではない。誰もが商売人に、客に、ブローカーになりうるのだ。

この事実は、我々に、深刻な再考を促さないだろうか。
なぜ、社会は、「回る」のか。なぜ、崩壊に向かうことなく、これだけの多くの、さまざまな人々が、この狭い地域で、ある安定を維持しながら、定着できているのか。これは、まさに、ハイエク的な「自生的秩序」について語っていると言ってもいい。人々は、その地域にある、さまざまな「慣習に」自ら「あえて」従う。その、積極的な、地域への関わりは、もちろん、貧しさゆえ、自分から、積極的に多くの人と関わっていき、仕事的関係になっていくことで、小金を得ていく(これこそ、資本主義の特徴、ですね。一般に、略奪においては、略奪に成功した方は、利益を得て、奪われた方は利益を失うが、商売においては、なんと、ゲーム理論もびっくり、「両方が勝利」しちゃうのだ。お互い、それほど困っていないものを「交換」し合うことで、お互いが今どーしても欲しいものを手に入れることに「成功」する...)。そういった、一個一個の小さな小宇宙が、さまざまにからみあって、この「マーキーパーク」の貧しいなりの、喧騒な小都市が形成されている。
こういった問題の、最も、典型的な場面こそ、「トラブル」だ。そして、そこに登場する人こそ、「交渉人」。

路地で自動車修理をしているジェイムズ・アーリーンダーのところに、一人の警官が自分の車をもちこんだ。警官は若い白人で、マーキーパークの担当になったばかりだと本人から聞いたことがあった。彼は地元住民のなかに誠心誠意とけこもうとしているようだった。「オイル交換をたのむよ」。警官はあたりまえのようにいった。「ちゃんとした男だって聞いたから、ひとつ儲けさせてやろうと思ってね」。ジェイムズは作業を終えると、警官に二十ドルを請求した。ところが警官は、さっきは十五ドルだと聞いたという。たいした違いではなかったが、しばらく押し問答になった。しだいに声が大きくなり、二人の手と体がじりじりと近づいた。「俺は人を騙したりなんかしない」とジェイムズは譲らない。警官は居合わせた人たちをぐるりと眺めわたしてその場の雰囲気を慎重に確かめると、囁くような声でいった。「騙したとはいってないが、十五ドルだとたしかに聞いたんだ」。どちえあも引き下がろうとしない。それに心配なことがあった。相手は警官だ。こちらはもぐりの修理屋だから、それだけでも見物人ははらはらしていたのに、そのうえ警官は白人だった。白人と黒人がはっきり分かれて暮しているシカゴでは、この揉めごともただではすまないだろう。
沈黙を破ったのは、ジェイムズに雇われている修理工のラリーだった。彼は私の顔を見ていった。「なあ、スディール、あんたはここにいて話を聞いてたよな。どっちが正しい?」。私は待っていたかのように早口で答えた。寒くて、みなが引き上げたがっていたからだろう。「ジェイムズがオイル交換に二十ドルとるのはこれで見たことがない。本当だ。だからこうしよう」。私は警官を指さしていった。「今日のところは十五ドルにしておいて、あなたはあと二度はかならずここでオイル交換し、二十ドルずつ払う。それで恨みっこなしにしませんか」。警官もジェイムズもこの案に納得したようだった。ほっとしたのか、二人は笑って握手を交わし、取引が成立した。

なんとなく、橘孝三郎が、農業をやるとき、田舎の百姓たちを、彼らは「無知」なのではない、ということに気付く場面を思い出した。大衆は、たんに、多くの教養とは縁がないだけであり、彼らの「世界」はそれ相当に、濃密なのである。百姓は、こと、農産物を育てる知識は、とてもやったことのない人間には、想像もつかないような、濃密な知とともにあるだろう。こういった都会の貧しい人たちだって、その地域で生きていくための、多くの濃密な何かをその血肉としているだろう。別に彼らの小宇宙にしても「無限」であることは変わらないのだ。
こうやってみてくると、掲題の本のタイトルは、だてではなく思えてくる。どうも、私たちが思っているのとは、まったく違った、「経済」がありうることを示すのではないか。
すべては、さらに、その根底を問い直すことを求められる。経済の根底に哲学を見出すように、哲学の根底にもその経済を見出し...。

アメリカの地下経済:ギャング・聖職者・警察官が活躍する非合法の世界

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