ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』

この本は、タイトルにもあるように、「みんな」、についての本です。
つまり、人間が集団となったときに、どういう傾向をみせるのか、そういう本です。しかし、この本がおもしろいのは、その集団が、非常に広い範囲まで含んで、扱われていることです。たとえば、株式市場、に関係する多くの人々は、一つの集団として、ある傾向を示します。また、交通渋滞もそうでしょう。一人一人は自分の都合でさまざまな行動をしています。すると、それを「集団」としてみたとき、ある、特徴のある動作を見せてきます。いずれにしろ、そういった、さまざまな集団についての、さまざまな傾向を網羅的に集められていることでは、よくまとまっていないか。
しかし、集団といっても、それを考察する、命題が必要です。その第一命題は、「集団はかしこい」、になるでしょうか。
たとえば、ここに、一つの透明なビンがあるとしましょう。そして、その中に、たくさんの、ゼリービーンズが入っているとイメージしてください(いろいろ、カラフルなのが入ってた方が、ワクワクしますね)。さて、このビンの中には、何個のゼリービーンズが入っているでしょうか? それを、ビンの外から眺めて推測で当ててもらいます。
この、なんでもない実験ですが、おもしろい傾向を示します。つまり、このテストを多くの人にやってもらうほど、その「平均」は、正確な値に近づくのだそうです。
さて、何が起きているのでしょうか。
この現象に似たものとしては、確率論の「大数の法則」がありますね。一般に、どんなに優秀な人でも、ある勘違いなど、その人特有の「誤差」をもって判断してしまいます(つまり、それはリスクです)。しかし、その「誤差」を言わば、平均として、ならしてしまおう、というわけです。
どんなに優秀な人でも、ある決定的な事実に思い至らなかった、そもそも、その知識がなかったかもしれません。しかし、多くの人の中には、その重要な事実をこの場面に適用しようとする人もいるでしょう(自覚的であれ無自覚であれ)。すると、その優秀な人一人の判断に運命を託すより、その、たまたま事実に気付いた人幾人を「含んだ」集団の平均をみた方が、たいがい真実に近づいているものだ、ということです。
しかし、この戦略が成功するためには、条件があります。一つは、「独立性」です(確率論で言う、独立、と対応していますね)。その集団のそれぞれが、他の人の判断にひっぱられることなく、自分で判断することが大事だということです。(そうやって考えてみると、これは、自由主義に対応していると言うべきなのかもしれません。自由とは、「集団の中における」自由、のことですから)。
つまり、最初に集団を研究する、と言いましたが、著者が、人間の知恵として、もっと注目されるべきと主張する上記の特徴では、集団内の各自が独立に判断することが前提となっていることが、注目されます。
さて、この問題を、一般の集団に適応してみましょう。その場合に、ネックとなるのは、当然、集団の規模です。多くのチームは、数えるくらいの人数で構成されているものです。その場合は、どのように考えればいいのか。

知性というのは、スキルが入った道具箱のようなものだと考えると、「ベスト」と考えられるスキルはそれほど多くなく、したがって優秀な人ほど似通ってしまう。これは通常であればよいことだが、集団全体としては本来知りうる情報が手に入らないことになる。それほどよく物事を知らなくても、違うスキルを持った人が数人加わることで、集団全体のパフォーマンスは向上する。
なんとも奇矯な結論だと思われるかもしれないが、それが真実なのだ。似た者同士の集団だと、それぞれが持ち込む新しい情報がどんどん減ってしまい、お互いから学べることが少なくなる。組織に新しいメンバーを入れることは、その人に経験も能力も欠けていても、より優れた集団を生み出す力になる。その集団にいる古参のメンバー全員が知っていることと、新しいメンバーが知っているわずかなことが重複しないからだ。

おもしろい結果ではあるが、日本の少年ジャンプ的サブカルチャーにおいて、何度も繰り返し描かれてきた姿と言えなくもない。また、私たちが、さまざまに、チームを構成したときに、実感してきた光景でもある。
しかし、多くのチームにおいては、そもそも、これ以前の場合の方が多い。つまり、上記のような、集団決定プロセスを使おうとする方がずいぶん特殊だ。
つまり、少なくとも、これが制度化されているチームというのは、あまりない。それは、当然であって、チームは、上位機関をもち、その上位に対し、責任をもつのは、チームのリーダーであるからだ。よって、そういう集団決定プロセスが実行されているチームとは、リーダーの気まぐれ、のようなものと考えるべきなのだろう。

集合的な意志決定は合意形成といっしょくたに考えられることが多いが、集団の知恵を活用するうえで合意は本来的には必要ない。合意形成を主眼に置くと、誰かを刺激することもない代わりに誰の感情も害さないような、どうでもいい最大公約数的なソリューションになりやすい。合意志向のグループは慣れ親しんだ意見ばかり大事にして、挑発的な意見は叩き潰すからだ。
この「みんなで仲良くしようヨ」的アプローチが生み出す問題は、第二次世界大戦後に多くの企業がつくりだした無限とも思えるマネジメントの階層によってますます悪化した。意志決定プロセスにできるだけ多くの人を参加させようとすると、企業のトップはほかの人たちが本当に考えていることからますます隔絶されるという矛盾が起きるのだ。意志決定の前にマネジメント層ごとに綿密に検討を加えるので、ソリューションの質も落ちていく。

一九六二年に若い経営幹部層を対象に行われた調査によれば、上昇志向が強ければ強いほど「自分の抱えるトラブルに関連した情報を正確に伝えなくなる」そうだ。もちろん、彼らは賢いからそうするのだ。中間管理職五二人を対象にした別の調査では、ミスをボスに伝えないという態度と昇進の間に相関関係があると示された。いわゆる出世頭の経営幹部には揉め事や予算の問題などの情報をオープンにしないという傾向が見られた。

本当に必要な情報の共有を邪魔する要素の一つに、部下からの反対を受けることへの上司の強い反発がある。トップダウン型の意志決定の代償は、自分が完璧であるという幻想をトップにいる意志決定者に与え、ほかの人たちは全員その幻想を信じる振りをするようになることだ。組織人には衝突を避けようとしたり、問題になりそうな芽をつもうとしたりする傾向が自然に備わっているため、このことの弊害は特に大きい。

上記の引用は、悲観的な例ということなのだろうが、それは、チームを集団と考えるから、だとも言える。チームがもし、リーダー一人であるなら、この態度は、たんにリーダー一人の判断であるわけで、普通の事態と言える。責任とはそういうもので、別に、不思議な話ではない。最初にも書いたように、たいがいの場合では、「誤差の範囲」であり、システムは、そのリスクをヘッジできるようになっている(システムとはそういうもので、それは、集団でも個人でも同じだ)。
しかし、そうは言っても、2003年におきた、スペースシャトル・コロンビア号の、打ち上げ時の、断熱材の剥離の事件、のように、あの、NASA、でさえ、こういった深刻な事態を起こすことを考えると、まあ剣呑とした話ではある。ようするに、部下には、諫言、あるのみ。別にそれは、いつの時代も変わらない。
しかし、奇跡的なまでに、目覚ましい結果を残し、歴史に名を残したケースもある。

自分働く環境に関して意志決定できる権限を人々に与えると、業績が目に見えて改善するケースが多い。
その最高の例として、圧倒的な生産性を誇るトヨタ生産方式(TPS)が挙げられる。TPS の核となる発想は、現場の従業員が複数のスキルを身につけ、現場からボトムアップで製造工程を理解することで最大限の効率化が実現できるというものだ。トヨタは一人ひとりの従業員が周囲から隔絶されて製造の一工程だけにかかわるという昔ながらの組み立てラインをなくした。
TPS がもたらした変化を象徴的に表わす仕組みがある。従業員は何か異常を発見したら直ちに製造ラインを止める権限がある。実際にラインが止められることはほとんどない。先のスイッチと同じように、自分にそういうことが出来るという事実が重要なのだ。

(こういうことができたのも、ある程度ラインが、固定されている世界だからでもあるのだろうが、しかし、こういった英雄的な成功譚より今は、不況をなんとかしてくれ、なのだろう...。)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)