商慣行

これだけ、グローバル化が言われていながら、そもそも、その国々で、明らかに違っている慣習、というのは、多くある。そうすると、多くの人が、素朴に思うことは、「そんなに簡単に、グローバル化などと言えるのだろうか」、であろう。そんなに簡単に、世界共通、を目指すべきなのだろうか。世界のルールの統一化は、それほど、喫緊で達成しなければならない、課題なのだろうか。
例えば、日本は、欧米に比べて、手形決済が多い、という。欧米では、そもそも、訴訟費用が安い(数十万の被害なら、簡易裁判で弁護士なしでやれる)。だから、信用売りは、手形を使わず、売掛金でやってしまう、というのが一般的なのだそうだ。もちろん、大きなお金の動くときは、手形を切るのだが、その場合は、保険に入る。逆に日本では、なんでも、手形にしてしまう面がある。
手形の問題は、「連鎖倒産」のリスクがあるところなのではないか。
手形は、半年に二回不渡りをおこすと、銀行取引停止になるということで、ほぼ倒産を意味するわけで、かなり強力な信用を与えていることになる。しかし、逆に言えば、そこまでのことを、本当にさせなければならないのか、というのは思わなくもない。
前に、大きな銀行が倒産したとき、ばたばたと、その地域の会社が倒産した。ようするに、各会社が、さまざまなもたれ合いの関係になっている、ということなのだろう。ある意味で言えば、まったく、独立自尊になっていない、ということ。
もちろん、日本の訴訟費用が高いのは、法曹関係者が圧倒的に少ないから、なのだろう。こんな例は、ごまんとある。医者が過労死するのも、患者がたらい回しされるのも、単純に言ってしまえば、医者が需要に対して少ないから、なのだろうが、しかし、それによって、彼らの開業医になった場合の、高額収入が保障される。
簡単に言ってしまえば、規制緩和が不十分のため、日本では、多くの人が、手形という、かなりリスキーなものを使わざるをえなくなっている、とも言える。
正義のチェックアンドバランスにしたって、その需要が確実にあるなら、「市場化」対象であるはずだ。それがうまくできていないために、過剰な信用を、個人は保障せざるをえなくなっている、とまで言うことさえできるのかもしれない。
逆に、日本のような、形態になっていることによる利点というのはあるのだろうか。もちろん、手形といっても「法的なアイテム」ですから、国家が関与するという意味では、裁判と等価。裁判の方がむしろ、細かな正義の手当てができるだけ、便利なようにも思うが、しいて言えば、国家全体における、訴訟コストを、できるだけ、減らしたい、というくらいだろうか。
(いや、言いたかったことは、これだけの違いが「現場において」存在しながら、同じような経済理論で語られる、っていうのが、ちょっと違和感があった、というだけなんですけど。)
すみません。なんとも、勉強不足で、にえきりませんで。